2009年06月18日

辺見庸札幌講演会

辺見庸札幌講演会のご案内

・演題:「言葉に見すてられるとき―いま内心の表白は可能か

日時:2009年8月1日(土) 開場15時30分、開演16時00分

場所:サンピアザ劇場(JR新札幌駅直結)

主催:北海道国語教育フォーラム(北海道の高等学校国語科教員を中心とした研修団体。代表・武田克伸 札幌清田高等学校校長)

協力:毎日新聞社出版局

会費:1000円(教員以外のかたがたのご参加も歓迎します。事前予約は不要ですので、当日会場にお越しください。座席数300席を超えると補助席または立ち見となりますのでご了承ください。また、お体の不自由な方、ご高齢の方への席の譲り合いにご協力くださいますようお願いいたします)

問い合わせ:札幌旭丘高等学校 小泉泰之(教諭)TEL011(561)1221
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2009年05月30日

『私とマリオ・ジャコメッリ―〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』発売

発売中私とマリオ・ジャコメッリ――〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて            

・2009年5月29日発売(NHK出版)

・孤高の写真家をめぐり静かに深まりゆく作家の言葉−断想。NHK新日曜日美術館「私の愛する写真家」(08年5月25日放送)をもとにした詩的映像論。生と死の思索。マリオ・ジャコメッリの代表作の他、辺見庸未発表詩篇も収載。

(主な目次)

私とマリオ・ジャコメッリ第一章  白は虚無、黒は傷跡

  スカンノの少年
  心と躰に刺青を彫りこまれる
  「想像への入口」としてのモノクローム
  あらかじめ詩人である男が見る異界
          
第二章「時間」との永遠の戦い
   
   「時間の強制」からの離脱
   識閾から見る風景
   世界はそこに実在するのか
          
第三章 生に依存した死、死に依存した生
    
  死にゆく者の側から撮られた風景
  「死」とむきあう空間のにおい
  〈見ること〉と〈見られること〉
  「死ぬのもむずかしいのよ」

第四章 資本、メディア、そして意識

  「無意識」に入りこむ資本
  映像と資本の腐れ縁
  資本はジャコメッリさえもとりこむ
  倒錯した状況のなかで

第五章 解かれなければならない「謎」、解いてはならない「謎」 

  謎と自由
  表現者はいかにして資本と権力から自由でありえるか
  ジャコメッリという人間の手ごたえ
  帰結のむこうにはじまりがある


(問い合わせ先)NHK出版
 電話:03−3780−3325(編集)担当:高井
    0570−000−321(販売)
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『しのびよる破局―生体の悲鳴が聞こえるか』発売

発売中『しのびよる破局―生体の悲鳴が聞こえるか(大月書店)

(NHK・ETVT特集「作家・辺見庸:しのびよる破局のなかで」の書籍版。
放送内容を再構成、大幅補充。3刷り決定

・7月11日(土)午後8時30分〜9時24分NHKBS2「週刊ブックレビュー」が書評予定。



     目次


しのびよる破局第一章 破局の同時進行
  同時性のパンデミック
  価値システム総体の破綻
  人間的価値の問いなおしを
  病むべく導き健やかにと命じる

第二章 生体反応としての秋葉原事件
  世界からの孤絶
  「リア充」の喪失
  被害者と加害者の究極的な等価性
  時・空間の変容
  端末化する生体
  思索の排除

第三章 価値が顛倒した世界
  格差と内面の変化
  新しい階層の誕生
  マルクスの発見
  カジノ資本主義への自省
  大量自殺という「内攻的な暴動」
  憲法九条と二五条の危機
  経済危機とナショナリズム
  労奴≠ニ労組の背信
  ファシズムは魅力的な顔をしている

第四章 無意識の荒み
  日常のコーティング
  無意識の荒み
  メディアが煽動する世間
  駄作としての資本主義

第五章 人智は光るのか
  社会は善意に満ちているか
  「誠実」の凄み
  暴力の時代
  「人間であるがゆえの恥辱」
  腐った民主主義
  マチエールとインタラクト
  たたかいは避けられない
  人智は光るのか

第六章 〈不都合なもの〉へのまなざし
  PPJと許せる自己像
  無≠分泌し、ただ歩く
  思索と徒労
  死者の列、末期の眼
  最期の残照
  宙づりのことば
  年譜や碑文はいらない
  他の痛みへ
(巻末断想)破局のなかの光明≠ノついて――あとがきのかわりに

連絡先:大月書店
http://www.otsukishoten.co.jp/
電話(代表) 03-3813-4651
FAX 03-3813-4656
担当:西浩孝
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辺見庸コレクション3『美と破局』

予約開始辺見庸コレクションV『美と破局』

毎日新聞刊

2009年6月下旬全国書店にて発売



傷ついたもの、破壊されたものに宿る美とは何か? 破局の迫るいま、本当に輝く哲学とは? 
ジャズ・トランペッターのチェット・ベイカーを語りながら現代の悪と美の極限に迫る「甘美な極悪、愛なき神性」、新しい言葉の誕生を予感させる瞠目の書き下ろし詩篇、2年にわたって『月刊現代』巻頭に連載され大反響を呼んだ「潜思録」全文……など最重要作品を収録するコレクション第3巻。

付録の折り込みしおりでは、田中優子(国文学者)、趙博(シンガーソングライター)、細見和之(ドイツ思想研究者)、五所純子(ライター)が書き下ろしの辺見庸論を執筆!


【目次より】

T 美と破局
甘美な極悪、愛なき神性――新たなるチェット・ベイカー
幻夢は明るみにひきだされるべきか――ジャコメッリ映像の豊穣な謎
めぐる〈生の時〉と〈死の時〉――蠱惑する”閾”の風景

辺見庸コレクションV『美と破局』
U 詩篇
酸漿

葬列

破瓜
黄身
ドーム
ズボズボ
緑青

残照
花序
ファザーの居間
星座
眠り
死相
夜戦


V 潜思録
朝の心象
無為にして化す
死は巧まれて
日本礼賛
歌の記憶
五月闇
残忍な女神
沈黙の螺旋
参院選とBF症候群について――危機が日々増大している
言霊の行方
メルトダウン
ゴルビーとバッグ
雲泥千里
年年歳歳相似たり
和の終焉
愚昧の浸透圧
底光り
存在の剽窃
恐慌の足音
不可視の内戦
”ごかし"社会
五輪後の中国
洛陽の紙価
新たなる終末
なんのかんばせあって……


W 痛みについて
ミルバーグ公園の赤いベンチで
邂逅――紅紫色の木槿のかげ
名残の桜、流れる花
痛みについて


X 音なく兆すもの
絵入り洋燈と観覧車――音なく兆すものたち
二つの日常――死生観の揺れと永遠のいま
シオランさん
洞爺湖サミットへの熱いメッセージ――「幻想の絶頂」をことほぐのか
お別れのことば


Y 宵の散策
Kよ
幻像
センシティブ・プラント
仏桑華
風景連鎖
宵の散策
花食む男


Z 闇に学ぶ
銀糸の記憶
闇の内省と水中花
輝ける陽根
するめ
南天夜間飛行


4・6判上製240頁
定価1700円(税別)
連絡先:毎日新聞社
http://books.mainichi.co.jp/
電話03-3212-3239
FAX 03-3212-0095
担当 向井徹
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2009年05月29日

詩文集『生首』9月毎日新聞から

詩文集『生首』刊行へ


辺見庸詩文集『生首』は2009年9月初旬、毎日新聞から刊行されることになりました。『文學界』掲載稿のほか書き下ろし詩篇、断想を多数収載予定。

連絡先:毎日新聞社
http://books.mainichi.co.jp/
電話03-3212-3239
FAX 03-3212-0095
担当 向井徹
辺見庸 ●刊行予定このページの上部へ戻る

私事片々

私事片々


・大道寺将司さんが文庫版『自分自身への審問』に寄せてくれた原稿のことをずっと考えている。この文のこころには万鈞の重みがある。おのずからの透明度がそなわっている。この原稿を前にしては、余人のどのような文の動機もただただいかがわしく見えてくる。監視下、独居房で便箋に字を記すかれの姿がまなうらに浮かぶ。万鈞の重みと透明度は、だが、その環境からくるのではない。いま生きてあるかれの構えとこころばえのせいである。大道寺さんは是が非でも生きなくてはならない。(09.6.24)

・一語でたちまちにすべてが露見し、すべてが饐える。その問題について、編集者と電話ですこしばかり話す。不快千万である。というより、すずろにわびしい。あながちにこだわっていたものが、くだらぬ風袋だけだったとは。ことばはかならず自白する。たったの一語だけですべてが饐える。(09.6.25)

・促音は通常3モーラを構成する音素結合のまんなかの要素としてのみ存在する。これを省略するのはいうまでもなく筆者の自由ではある。促音ひとつ落とすか落とさないかは、しかし、しばしば趣味をこえて、生き方と思想にかかわる。その一語でたちまちにしてすべてが露見し、すべてが饐える。fuck you!はファック・ユー!である。ファク・ユー!ではない。(09.6.26)

・促音の意図的省略に逆上した私は気が狂っているのだろうか。昨日、福岡から飛行機でわざわざインタビューしにきた新聞記者に「ところで」と逆に問うてみた。「big fat pussyをビッグ・ファット・プッスィーというかビッグ・ファット・プスィーとよぶかは、片仮名表記上はどうでもよいかもしれない。だが、私的言語閾にあってはときに絶対的にゆずれない問題となる。ぼくはプッスィーをわざとプスィーと書くばかを殴り殺したい衝動にかられる。やっぱり狂っているのだろうか?」と。「平和の問題」について質問しにきた記者は、そのときすこしも笑わず、しきりにまばたきしながら私の眼を見つめていた。さなきだに頭がおかしいとおもわれている私である。かれはなにかをたしかめたにちがいない。(09.6.27)

・鈍感な蛸よ。殺そうったって、死なない蛸よ。嬉々として、死者の顔にへばりつく蛸よ。蛸よ、あんたの勝ちだよ。鈍感な蛸よ。
・30日に発つ中野智明さんと会う。ひとしきり沼沢のおもいでばなしをしてから、ニジェールのテネレに行ってみないかという話になる。テネレのことは前にも聴いたことがある気がする。おそらくおたがいに忘れているのだ。テネレ。今回ははっきりと行ってみたいなとおもう。なにかあるから行くのではなく、なにもないから行ってみるという無意味の意味を、中野さんは理解している。なにもないところをもっとさがしてみる、とかれは真顔でいう。なにもないところはなかなかないのだ。テネレ以外の候補も早めにだしあうことにする。中野さんが家まで送ってくれる。途中、弁当屋で焼き肉弁当を買う。かれは杖をつき、私は千鳥足で歩く。沼沢が逝ってからもう15年もたつ。(09.6.28)

・鈍感な蛸を殺すのはたぶんもっと鈍感な大蛸である。もっと鈍感な大蛸は海底の死人の頭に、深編笠みたいに、ぬちゃっとかぶさるのである。(09.6.29)

・蛸を鈍感ときめつけるのは、だが、ひどい偏見かもしれない。蛸は死なないどころか、実際は短命である。ストレスが高じるとみずからの足を食ってしまうほど感じやすい。無脊椎動物のなかではもっとも高い知能をもっていて、記憶力も抜群である。その血の色は青く、詩的でさえある。(09.6.30)

・蛸には意識がある。抑鬱のあまり足を食うのはその証左である。しかも、ストレスで食った足は二度と生えてはこない。ということは、つよい羞じの感覚をもつ可能性があるということになる。(09.7.1)

・発音不能のことどもはそもそも存在しないと断じてはならない。蛸は蛸と呼びならわされる、そのじつ発音不能の「他のもの」であるかもしれない。たとえば、神のような。語ろうとして語りえない、視ようとしえ視えない、わかろうとしてわかりえない、インドのある神の名のようにだれにとってもとうてい発音不能のもの。それが蛸であり、神であり、ひいては「私」という現象のなかの表象のかなわぬ意思かもしれない。(09.7.2)

・発音不能のものとは、ポール・オースターによれば、インドではなくヘブライのとある神の名前だそうだ。(09.7.3)

・私はかつてタッコー(taccoe)であった。(09.7.4)






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