
・大道寺将司さんが文庫版『自分自身への審問』に寄せてくれた原稿のことをずっと考えている。この文のこころには万鈞の重みがある。おのずからの透明度がそなわっている。この原稿を前にしては、余人のどのような文の動機もただただいかがわしく見えてくる。監視下、独居房で便箋に字を記すかれの姿がまなうらに浮かぶ。万鈞の重みと透明度は、だが、その環境からくるのではない。いま生きてあるかれの構えとこころばえのせいである。大道寺さんは是が非でも生きなくてはならない。(09.6.24)
・一語でたちまちにすべてが露見し、すべてが饐える。その問題について、編集者と電話ですこしばかり話す。不快千万である。というより、すずろにわびしい。あながちにこだわっていたものが、くだらぬ風袋だけだったとは。ことばはかならず自白する。たったの一語だけですべてが饐える。(09.6.25)
・促音は通常3モーラを構成する音素結合のまんなかの要素としてのみ存在する。これを省略するのはいうまでもなく筆者の自由ではある。促音ひとつ落とすか落とさないかは、しかし、しばしば趣味をこえて、生き方と思想にかかわる。その一語でたちまちにしてすべてが露見し、すべてが饐える。fuck you!はファック・ユー!である。
ファク・ユー!ではない。(09.6.26)
・促音の意図的省略に逆上した私は気が狂っているのだろうか。昨日、福岡から飛行機でわざわざインタビューしにきた新聞記者に「ところで」と逆に問うてみた。「big fat pussyをビッグ・ファット・プッスィーというかビッグ・ファット・プスィーとよぶかは、片仮名表記上はどうでもよいかもしれない。だが、私的言語閾にあってはときに絶対的にゆずれない問題となる。ぼくはプッスィーをわざと
プスィーと書くばかを殴り殺したい衝動にかられる。やっぱり狂っているのだろうか?」と。「平和の問題」について質問しにきた記者は、そのときすこしも笑わず、しきりにまばたきしながら私の眼を見つめていた。さなきだに頭がおかしいとおもわれている私である。かれはなにかをたしかめたにちがいない。(09.6.27)
・鈍感な蛸よ。殺そうったって、死なない蛸よ。嬉々として、死者の顔にへばりつく蛸よ。蛸よ、あんたの勝ちだよ。鈍感な蛸よ。
・30日に発つ中野智明さんと会う。ひとしきり沼沢のおもいでばなしをしてから、ニジェールのテネレに行ってみないかという話になる。テネレのことは前にも聴いたことがある気がする。おそらくおたがいに忘れているのだ。テネレ。今回ははっきりと行ってみたいなとおもう。なにかあるから行くのではなく、なにもないから行ってみるという無意味の意味を、中野さんは理解している。なにもないところをもっとさがしてみる、とかれは真顔でいう。なにもないところはなかなかないのだ。テネレ以外の候補も早めにだしあうことにする。中野さんが家まで送ってくれる。途中、弁当屋で焼き肉弁当を買う。かれは杖をつき、私は千鳥足で歩く。沼沢が逝ってからもう15年もたつ。(09.6.28)
・鈍感な蛸を殺すのはたぶんもっと鈍感な大蛸である。もっと鈍感な大蛸は海底の死人の頭に、深編笠みたいに、ぬちゃっとかぶさるのである。(09.6.29)
・蛸を鈍感ときめつけるのは、だが、ひどい偏見かもしれない。蛸は死なないどころか、実際は短命である。ストレスが高じるとみずからの足を食ってしまうほど感じやすい。無脊椎動物のなかではもっとも高い知能をもっていて、記憶力も抜群である。その血の色は青く、詩的でさえある。(09.6.30)
・蛸には意識がある。抑鬱のあまり足を食うのはその証左である。しかも、ストレスで食った足は二度と生えてはこない。ということは、つよい羞じの感覚をもつ可能性があるということになる。(09.7.1)
・発音不能のことどもはそもそも存在しないと断じてはならない。蛸は蛸と呼びならわされる、そのじつ発音不能の「他のもの」であるかもしれない。たとえば、神のような。語ろうとして語りえない、視ようとしえ視えない、わかろうとしてわかりえない、インドのある神の名のようにだれにとってもとうてい発音不能のもの。それが蛸であり、神であり、ひいては「私」という現象のなかの表象のかなわぬ意思かもしれない。(09.7.2)
・発音不能のものとは、ポール・オースターによれば、インドではなくヘブライのとある神の名前だそうだ。(09.7.3)
・私はかつてタッコー(taccoe)であった。(09.7.4)