2014年04月25日

連続対談掲載



◎週刊金曜日が3週連続対談を掲載

「週刊金曜日」が、辺見庸×佐高信の緊急対談「追いつめられた状況の中で」を、2014年4月11日発売号から3週連続で掲載しています。第1回(上)の4月11日号は6頁だてで、タイトルは「戦後民主主義の終焉――そして人間が侮辱される社会へ」です。第2回目の4月18日号(中)は全5頁で、タイトルは「『心』と言い出す知識人とファシズムの到来」。同25日号(下)は4頁だてです。
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2014年04月13日

日録13



私事片々
2014/04/14〜

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・疲れるとは、じぶんが在ることに倦むということだ。ザンチューのひとのよい娼婦は、前述のとおり、「わたしはだれですか?」または、「わたしはだれだとあなたはおもいますか?」と電話してきた。知らない、または、知るわけがない、とわたしは応答したのだ。ギックリ腰なのに、あるときわたしは指定の部屋に行った。ザンチューは、たしか、「民主」ということである。娼婦が名のった名前をおもいだせない。けふ、歯医者に行った。コビトに伴われダフネ2号店に行き、乱暴狼藉を詫びた。店長は入院中だという。うそにちがいない。でてきたら、また頭突きしてやる。アブサン1杯。シャコエビ7尾。お金をはらった。エベレストにのぼった。(2014/04/14)

切り口.JPG

・在ることの切り口をかんがえる。存在の端緒。在ることの契機と消失。そしてそれらなどまったく意に介しないもの。エベレストにのぼらなかった。(2014/04/15)

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・「聡明とは、精神が真なるものに開かれていることである」という。だから、戦争の可能性が永続することをみてとるのは聡明のあかし……という意味のことをレヴィナスは書いた。エベレストにのぼらなかった。新聞用エッセイ5.5枚送稿した。頭痛と疲労。明日の対談を延期してもらう。申し訳ありません!スーパーのクリームパンを2個食べた。犬にもあげた。(2014/04/16)

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・なにかとんでもないことが起きている。しかし、まだしっかりとは気づかれていない。途方もないことが生起しつつある。うすうすそうなのではないかとかんじていても、たがいにひとの顔色をうかがって言いだしかねている。じつは知っていた、などと何年もたってから語りだしてもおそい。「戦争状態がありうることで、人間の行為のうえにあらかじめその影が投げかけられている」。石川淳も似たようなことを書いていた。週刊金曜日の対談より文學界の「カラスアゲハ」をおもしろがるひとがいる。疲れがぬけない。(2014/04/17)

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2014年04月10日

最新小説


◎「文學界」5月号が最新小説「カラスアゲハ」掲載

カラスアゲハの幻影.JPG

2014年4月7日発売の「文學界」5月号が、辺見庸執筆の最新小説「カラスアゲハ」約70枚を掲載しています。
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2014年04月08日

ロングインタビュー


◎朝鮮新報ロングインタビュー

2014年4月14日付の朝鮮新報が、辺見庸ロングインタビューを一挙掲載します。総タイトルは「歴史認識のクーデター」です。電子版は11日アップ。
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2014年04月03日

日録12



私事片々
2014/04/03〜2014/04/13


コブシ.JPG

・週刊金曜日の対談ゲラ直し。対談というのは、話しおわったところですべて終了だといいのだが、そうもいかないので、後日、じぶんの谺を否応なしに耳もとで聞かされるようなはめになる。すでにし終えたことを、いま現在になぞるのは、想念がたえず流れている以上、どうもぐあいがよくない。過去を現在にもちこすのは苦手だ。が、しかたがない。かつて発せられたじぶんの貧相な言葉と、いらだちながら、向きあうほかない。一方でわたしは小説「カラスアゲハ」になにを、なぜ、どのように書いたかを、もう忘れかけている。「文學界」がでるころには、自作をまるで〈他者の仕業〉のように、遠いもののようにおもいなすだろう。じぶんという過去は1回いっかい他者のように死んでいく。他人事のように潰えていく。なのに、いくら老いても、仮死―脱皮―羽化―仮死……をくりかえしている。このくりかえしが、そう遠くない先に、まちがいなくとぎれるのをつよく予感している。そのとき、他者は〈わたし〉じしんになるのだろう。きょうはエベレストにのぼらなかった。(2014/04/03)

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・4月4日からけふまで、なにをしていたのか、あまり憶えていない。5日には施設にいる母に会いにいった。Mの助力なしにはできないことであった。母はまたいちだんと小さくなっていた。沈黙を誓ったひとのように、一言も口をきかなかった。2回笑顔になった。パサパサの手をにぎった。和解みたいに。翌6日はなぜだかマヒが軽くてすんだ。しかし、7日は視床痛がひどかった。文學界5月号が送られてきた。読んではいない。週刊金曜日の対談、朝鮮新報インタビューのゲラ直しをして疲れた。しゃべったことが字にされてみると、じぶんはほんとうにアホだとおもわされる。書くことと話すことは、まったくべつのことなのに、いつも混同してたかをくくってしまう。なぜかというと、バカだからである。修正したり、挿入したり、結局、二度手間になる。7日は歯医者とダフネに行った。その後、エベレストにのぼった気がするが、100パーセントたしかではない。けふはミスドに行き、カスタードクリームパンを食い、エベレストにのぼった。(2014/04/08)

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・毎日ムカつくことばかりですが、国民投票法改正案の共同提出者に自民、公明にくわえて民主党まで入っていたのには、先刻知ってはいたけれど、反吐がでる。ゲロゲロ。ファシズムの時代とはこういうものだ。改正案共同提出時に、超デカ耳の枝野幸男がいた。自衛権行使の要件を明文化した条項を憲法9条に追加し、憲法解釈の幅をできるだけ狭めることにより、野放図な軍拡に歯止めをかける――というのが持論らしいが、なんのことはない、安倍内閣の憲法死文化、9条破壊作業の助っ人となっているだけだ。かんたんな言葉で言うと、「裏切り者」である。ファシズムの時代とは裏切りの季節なのだ。「歴史は終わり、マスメディア(ダニのシステム)の騒音が風景に充満している」。コブシが散った。ヤマブキが咲いた。エベレストにのぼった。アパートの階段をあるいていたら、遊んでいたクソガキが仲間に大声で言った。「ロージンを通してやれ!」(2014/04/09)

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・新宿で鉄筆のなべちゃんと会う。早大ラグビー部の先輩が肺がんで亡くなり、昨日も飲んでいたらしい。鉄筆は徐々に軌道にのりはじめている。年末までに何冊かでるだろう。固有名詞として「鉄筆」が正しいのか「鉄筆社」が正式なのかたずねたら、固有名詞としては「鉄筆」だが、電話で話すときは、なんだかわからなくなるので、「鉄筆社」と言っているよし。うーん、とにかく鉄筆である。鉄筆とは、先端が鉄針になった筆記具で、謄写印刷で、原紙に文字を刻むのにもちいる、と大辞林にはある。ガリ版にのせた原紙に鉄筆でガリガリと文字を刻む。なんのために、と問われそうだ。ガリ版とはなにか、謄写印刷とはなにか、と。どうしてそのようなことをしたのか。答えるのも面倒だ。なべちゃんは新しい出版社の名前を迷わず早くから鉄筆ときめていた。旗幟鮮明である。なべちゃんと鯨飲したカボシャール。カボシャールの奈美さんも、とうに亡くなったことをおもいだす。奈美さん、頭のよい、すごい女のひとだった。テキーラボンバー!カボシャールのカウンターに飛びのって、なべちゃんと2人で裸踊りをした。どうして?どうしてもこうしてもない。鉄筆とおなじ。どぼじでも、こぼじでも、なひ。裸踊りしてると、奈美さんが電気を消した。100円ライターで陰毛に火をつけて踊った。陰毛は燃えるとパチパチ音がした。におった。灰をお客の頭にかけた。ゴリヤクがあると。焼き畑農業なのだと。文春のだれかもきたことがある。なべちゃんと鉄筆の話をしてから、10数年ぶりに文春に行った。きょうびはどこに行っても、駅の改札機みたいな通せんぼうがあるのに、文春はそんなものがなく、昔とほぼかわっていない。同じ位置にサロンがあり、同じ薄暗さのなかに昔と同じ空気がとどこおっている。タバコくさい。コーヒーの味もほぼ同じ。菊池寛の胸像の位置がかわったくらいか。茫然とする。気が遠くなる。無意識に時の河をさかのぼろうとするのは、死の前に特有の、精神の退行であろう。そう断定したくなる。田中さん、北村さんとお会いする。北村さんの静かな笑み。同じである。すべてがかわったのに、なにひとつかわっていない気がする。茫々と過去をのぞきこむ、不思議な1日だった。エベレストにのぼらなかった。(2014/04/10)

広場のシダレヤナギ.JPG

・魯迅の「祝福」が好きだ。というより、ずっと気にしている。祥林嫂(シアンリンサオ)という人間の不幸の原型は、なんどもなぞるに値する。中国はこれを1950年代に映画化して高い評価をえた。そのころは、まだしも知性があったのだ。いまは魯迅の作品が中国の教科書から削除されているというから、日本だけでなく中国の国家権力も、真正の知性を排斥している。「人間のつくる共同体の奥底には、まったく意識されることのない反復的な構造がひそんでいる……累積してゆく不可逆的な技術的進歩が、政治における古く変わらないものとむすびつくと、とんでもない暴発の危険性が生じる」(R.D)。信じられないことだが、信じられないことしかおきないのが現在である。中国でも日本でもオオカミは絶滅したか絶滅しかかっているとしても、21世紀の祥林嫂は続々と生まれている。新たな日中戦争の可能性は、むろん、ある。局地的衝突、暴発は、いつおきてもおかしくない。暴発の危険性は、両国の国家権力と大衆社会における知性の退行の速度と幅に比例して増している。つまり、明日にも、来月にも、来年にも、暴発するかもしれない。犬、コビトと西口ミスドへ。コーヒー、カスタードクリームドーナツ2個。土産2個。エベレストにのぼった。(2014/04/11)

昼の闇.JPG

・昨夜、フォー・ガを食べた。追加でニョクマムをかけた。そのニョクマムは昔のハノイのものではない、お上品で癖のない味だった。それでも、ニョクマムがコリアンダーと生モヤシのにおいとからまったら、丼の底からハノイの闇がとろりとひとかたまりだけわきだした。時はもう連続していない。あらゆる場所でいま、世界の連続性に亀裂が生じているのは、レヴィナスの予言のとおりである。だが、連続性の亀裂の溝から、じつにさいわいなことには、人間存在のひしゃげた裸形をぼんやりと浮き立たせる闇が生まれている。コリアンダーも生モヤシも味はうすい。まるで、存在しないもののように。闇もまださっぱり濃くはないのだ。それでも、闇はもくもくと増してきている。存在することじたいが悲惨であることを告げるために、闇がただよう。光ではなく闇のなかでこそ、わたしはすべて晒される。融けていく。そうなると、「目ざめているのは(わたしではなく)夜じしんである」。ダフネ2号店でけふの夕刻前、アブサンを飲む。エベレストにのぼった。(2014/04/12)

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・わたしという概念はたしかに「生きのびた者」以外ではありえない。問題は、生きのびてしまったこの目にいま、「廃墟」という未来のあらわれが見えているかどうかだ。ホテル・トンニャットの後、わたしはホテル・ザンチューに逗留したのだった。石油ランプを買ったのはホテル・ザンチューに移ってからだとおもう。いや、トンニャットにいたときだったか。わたしは日がな一日、火屋のなかの爆発に見入っていたものだ。石油ランプは宇宙の「内部」への入り口になった。ザンチューには中年のひとのよい娼婦がいたり、いなかったりした。部屋に電話をかけてくるのだ。「わたしがだれかわかりますか?」と。金のことになると、女はアップ・トゥ・ユーと言った。だいたい5ドルで足りた。悶着はおきなかった。ベッドがへこんでいたからか、ザンチューでギックリ腰になった。ダフネ2号店でけふ、アブサンを2杯飲んだ。シャコエビを17尾食った。むいた殻を床にペシペシすてた。すると2号店の若い店長が、お客さん、やめてくださいよう、と変な裏声で言うので、癇にさわり、鼻面に一発、頭突き(ノータッチ・ヘッドバット)をくらわせてやった。鼻血ブー。啖呵きる。「おまえ、大木金太郎も知らんくせに、なにをぬかすか!謝れ!」。店長、泣いて謝る。どうせ心から謝っているのではない。泣いたふりだ。当節はすべてこれである。眉間にパチキもう一発。ガツン。店長気絶。アブサン2杯、シャコエビ17尾をただにしてもらう。すみの席からコビトが冷たい目で見ていた。LSVを左側に少しだけあるく。アリの孔があった。スズランが散りかけていた。けふはエベレストにのぼらなかった。(2014/04/13)



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2014年03月31日

新刊


◎『いま語りえぬことのために』を刊行

辺見庸著『いま語りえぬことのためにーー死刑と新しいファシズム』
が2013年11月はじめに毎日新聞社から刊行されました。


おぞましい時代がやってきた!
甦る過去と猛る現在ーー。
語ろうとして語りえない
「虚の風景」を至当の言葉で
撃ちつらぬく、覚悟の書。
巻頭に書き下ろし「朝の廃墟」を収載。 
 



・ISBN978-4-620-32235-3 C0036
 定価1800円(税別) 
 
・問合せ 毎日新聞出版営業部
 電話03・3212・3257

 
カヴァー社名付.jpg

『語りえぬ』オビなし.jpg
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・原画 加納光於「赤の中の緑」1982 油彩 
・装幀 トサカデザイン
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2014年03月28日

日録11



私事片々
2014/03/27〜2014/04/02


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・「故郷に帰ってきた日の夜/私の白骨がついてきて同じ部屋に寝そべった」。何年ぶりだろう。朝鮮新報の朴日粉さんのインタビュー。いつの間にか、10年以上がたったのだ。わたしはおめおめと生きている。茫然とする。わたしが倒れたとき、イルブンさんは新潟にかけつけてくれたのだという。ああ、そうだったのか。唖然としてばかりいる。イルブンさんのお嬢さんはもう結婚されたのだという。イルブンさんと話していると、「敬意」という言葉を、おもいだすでもなくおもいだす。そんなに時がすぎたとはどうしてもおもえない。エベレストにのぼらなかった。(2014/03/27)

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・「行こう 行こう/逐われる人のように行こう/白骨に気取られない/美しいまた別の故郷へ行こう」。ユン・ドンジュの詩をキム・シジョンの訳でポツリポツリとなぞる。「清怨」という言葉があるのか。シジョンさんの「解説に代えて」で知る。おどろきである。清怨。もしもそうしたはげしく清い情というものがあるとしたなら、集団でも民族でも国家でも組織でもないだろう。ひとり、だ。まったくの、掛け値なしの、ひとりであろう。清怨。恥にしたってそうだ。みんなして恥じるなんて、大嘘だ。袴田事件。恥ずべきは官憲、司法、マスメディアだけでない。わたしたち、ではない。わたし、である。このようなことをゆるしてきた、わたしである。さもありなん、と内心くぐもっておもうだけで、叫びはしなかったわたしである。けふ、東京の病院。山のようにたくさんの薬をもらってよろよろと帰ってきた。なんだか夢中で帰ってきた。あとでじぶんのその姿をおもい、赤面した。エベレストにのぼらなかった。(2014/03/28)

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・コビトが花粉症と「ニンフォマニア」(と、じぶんで申告するのだからおかしなものだが)に同時になった、というので、犬をつれて病院にいく。丸顔のやさしい院長先生が問診。春から初夏にかけておきやすい一過性の症状という。クシャミと鼻水がニンフォマニアを誘発し、一時的に性欲を異常亢進させるらしい。薬を処方してもらい、ミスド経由LSVへ。ヤマザクラとコブシがいっしょに咲いていて、ヤマザクラの梢にはメジロがいて逆立ちして蜜を吸っている。とろりと甘いにおいと甘酸っぱい空気が2層になってただよっている。コブシの花弁が風で落ちて、通行人に踏みしだかれている。汚れた厚での花弁はすると、とろりと甘い香りではなく、心なしか苦みのまじる甘い汁を分泌し、それにアリたちがよっていく。「すべての絶えいるもの……」をまたおもう。そこになにか手がかりがないものか、ずっとさがしている。法務大臣が袴田事件再審開始と袴田さん解放についてコメントし、がんばって社会復帰するように、とかなんとか言ったらしい。自己と国家を同一視している者は、恥の感覚を欠く。個として詫びるということを知らない。むしろ哀れだ。袴田事件はわたしに、隠棲と隠遁、彽徊趣味のナンセンスをあらためておしえている。エベレストにのぼらなかった。(2014/03/29)

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・8月2日の宮城県講演のタイトルを暫定的に決めた。「『暴力』について――無力者はどう抗えばよいのか?」。講演概要も送れというので、あわてて以下のメッセージをつくった。
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 わたしはいま「暴力の時代」の到来を予感しています。それはすでにやってきたのかもしれません。暴力とは、一般的に言えば、乱暴で無法で理不尽な力のことであり、人の身体に苦痛をもたらす不当な力や物理的 強制力を行使することでもあります。しかし、ここでは、理不尽な力の定義をもっとひろくとらえ、2011年 3月11日におきた出来事をも暴力(force)の範囲に入れて、無力な人間の視線から、あらためてあの荒ぶる風景をおもいだし、見つめなおしてみようとおもいます。また、貧困者や弱者への「合法的」な締めつけ、在日外国人の抑圧、排斥、エスノセントリズム=自民族中心(優越)主義、歴史の忘却、憲法改悪……など昨今のうごきを、人間の暴力(violence)の観点からとらえ、その底なしの不条理についてお話しいたします。わたしがいまとりわけ関心をいだいているのは、目にははっきりとは見えず、人としてほんらい苦痛であり侮辱とされるべきことがらを、苦痛とも侮辱とも感じさせない、「不可視の暴力」です。不可視の暴力社会にあっては、だれもが例外なく被害者であるとどうじに、だれひとり例外なく加害者でもあります。そこでは、人間の能力、才能、欠陥、立ち居ふるまい全般について、日常的に監視または相互監視がおこなわれ、実際上、内面までもがシステムに管理されています。さらに、無知と無思考が暗黙のうちに求められ、〈わたしがわたしであり、わたし以外ではありえないこと〉=主体性の放棄がさかんに奨励されています。これら「不可視の暴力」の行きつく先には、いったい、なにが待っているのでしょうか。戦争? 無力な者は、生身の「個」として、どう抗えばよいのでしょうか……。
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 けふはエベレストにのぼらなかった。再び高崎宗司著『植民地朝鮮の日本人』読む。(2014/03/30)

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・歯医者の帰りに、桜を見た。むかしから桜はなんだか好きではない。「桜」の字も、「サクラ」の発音も好きになれない。怖い。おりしも『植民地朝鮮の日本人』を再読しているせいもあるのか、ことしはとくに桜がいやだ。桜じしんになにも罪はないのだけれど、桜の下にいる者どもが、どうもうとましくかんじられる。桜にまつわる歌と自己陶酔の心性が苦手だ。桜は醒めきった「他者」を前提していない。レヴィナスによれば、それは全体主義であり、わたしによれば、全体主義的階調である。桜は深く自省しなければならない。そんなことを、あるキリスト者に話したら、「ふっ……」とほとんど声にせず笑っておられた。かのじょによると、年々、桜の咲き方がおかしくなっているという。徐々に咲く、というゆったりした流れがなくなり、いきなり満開になったり、コブシと同時に咲いたり、ほとんど順番無視だそうだ。いまは不時現象が常態化しているのだ。にしても、コブシやムクゲを見ているほうが気が晴れる。桜を見ていると、知らずしらずに、気づまりになる。『植民地朝鮮の日本人』は先達たちの風景のディテールである。無意識の挙措の仔細である。ほんとうに気がふさぐ。ザワザワする。胸騒ぎがする。しかし、読むのをやめることはできない。著者の高崎宗司さんはわたしと同い年だ。いまは過去から流れきた河なのであり、未来も、なにか桜のようなものをチラホラと浮かべた、ここからの流れであるにちがいない。エベレストにのぼらなかった。(2014/03/31)

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・ああ、うっとり!桜がいっぱい咲いている。結局、あの「内面の畸形者」たち、NHKの会長や内閣法制局長官らは辞めず、辞めさせることもできなかったのだ。首相はかれらをかばっている。咲いた、咲いた、桜が咲いた。静岡地検は袴田巌さんの再審開始をみとめた静岡地裁の決定を不服として東京高裁に即時抗告した。だれの目にも明らかなえん罪なのに。いま、戦前?yes、戦前ないし戦中だ。もう敗戦後ではないのだそうだ。サクラサク。内務省は1947年末に廃止されたはずであるにもかかわらず、そのエトスはまったく途絶えず、「闇の内務省」が復活しつつある。キサマトオレトハドウキノサクラ……。靖国神社には「桜の標準木」てのがあって、気象庁はその樹の花のひらきかげんで開花宣言をする。日本の軍事主義化と翼賛議会実現をめざして1930年に結成された超国家主義的な秘密結社。その名は「桜会」。そんなもの、もうなくなった?ほう、ほう、そうですかねえ。あんたの目に見えないだけでじゃないですか。咲いた、咲いた、桜が咲いた。桜は馬肉の俗称にして、露店などで、客の買い気をそそるため、客のふりをするまっかなニセ者のこと。反原発のサクラ。護憲のサクラ。民主主義のサクラ。良心的ジャーナリズムのサクラ。サクラ(馬肉)詩人。同評論家。サクラ諮問委員会。サクラ協議会。ニッポンゼンコク、ツツウラウラ、サクラだらけ。世界恐慌の時代につかわれた国語読本の愛称も「サクラ読本」(『小学国語読本』)。冒頭は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」。「……まさに今日の人間を支配している順応の過程が、つまるところ想像をぜっする規模で……人間を畸形にしていることがわかるのです」。内面の畸形を難じる者が、いまや逆に畸形と断ぜられるのである。エベレストにのぼった。(2014/04/01)

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・東口から交差点をぬけて、細い遊歩道にはいった。桜が満開である。遊歩道は明渠に沿うて東西に何キロものびている。明渠と書いたが、それは河ではない。側溝とよぶには幅がけっこうあるので、ただしくは堀り割りと言うのかもしれない。水が流れているときも、ゴミを浮かべてとどこおっているときも、渇水しているときもある。きょうは水が花弁を浮かべて、ゆるゆると流れていた。水のにおいはしたことがない。ふだんは忘れているのだが、きょうはその明渠、あるいは水の道を、不思議におもった。ふと、これはもともとなかったものではないか、と疑ったのである。それならば、なぜそれはいま眼前を流れているのだろうか。細い水の流れは樹々の陰にゆらめいている。ほとんど夢に見たとおりに流れているものだから、なおのこと嘘ではないかと疑ってしまうのだ。抜き差しならないことになっている。そうおもう。なんどもそうおもう。とりかえしのつかない事態になっている。だが、そのことが正直わたしとどうかかわるのかについて、うまく言うことができない。口にしたり書いたりしたとたんに、口にし、書こうとしたことや風景が、さっと遠のいてゆき、口にし書くことそれじしんが、とても愚かしくおもえてくる。そのくりかえしにだんだん疲れてくる。いまの政権のこと、世の中のことを、具体的にあげつらえばあげつらうほど、口中が爛れてくる。それではいけないと、無理をして、口にするのも汚らわしい人名や行為をいちいちあげて非難すればするほど、かえって見えない全景の術中にじぶんがはまっている気がしてくる。言えば言うほどばかになる……とかんじさせられる。うまくできているのだ。明渠にしても暗渠にしても、わたしは証すことができず、それは証されず、ただ疲れのなかをとろとろと流れている。夜か昼かもじつははっきりしない。脇見をする。対岸を歩いていく男の影が、ときおり樹間に見えて気になる。あれはだれか。わたしとおなじ方向に、わたしのように、足をひきずってあるいていく老人。夢のなかのように。かれはだれか。ミスドにはいる。犬とコビトと。コーヒー、クリームパン2個、肉ソバ。バッグにかくれた犬に菓子のかけらを食わせる。店員がくると、犬はウツボのようにバッグのなかにかくれる。スクラッチは外れ。入り口ちかくの席に、畳んだ布団ほども大きな荷物をもった中年女性が、どっこいしょと座った。赤ら顔のむこうの自動ドアに、桜吹雪が吹きつけている。ドアが開くたびに花びらが舞いこむ。女性は顔に汗をかいている。テラテラ光る。なぜだか、うつむいてひとりでニマニマ笑っている。コビトはたぶん気がついていない。わたしにしたって、見えてはいるのだが、どうしてひとりで笑っているのか、なにもわかっちゃいないのだ。エベレストにのぼらなかった。熊野純彦著『レヴィナス入門』。おもしろい。「はじめに」の書きだしから一発でひかれる。(2014/04/02)


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2014年03月20日

日録10



私事片々
2014/03/20〜2014/03/26

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・昨日も一昨日もエベレストにのぼらなかった。けふものぼらないだらう。やはりのぼらなかった。歯医者。「カラスアゲハ」ゲラ手入れ。疲れた。(2014/03/20)

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・エベレストにのぼった。それだけ。一日中眠く、だるい。なにもできず。視床痛。いててて…。よく生きてるもんだよ。(2014/03/21)

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・ダフネにいったら、なかの電灯はついてるのに、シャッターが閉まっていた。OK。西口のミスドにいく。ヴィガースハウスのアドルノ論読む。少しだけ。コーヒーくそまずい。コビトに電話。ガキどもがうるさいのでLSVへ。イスノキが葉っぱをつけていた。世界から「質」をうばい、主体から「主体性」を消したもの、「夢のなかのようなさきどり」――をおもふ。真っ赤なストックで長身のからだをささえながら、散歩道を白髪の女性があるいている。ヨイヨイのわたしよりおそい。追いこすとき、ちらりと顔が見えた。東欧か北欧の老女の顔。苦悩のあまりか、表情がセメントみたいにかたまり、灰色の目はうつろだった。憂愁なんてもんじゃない。死ぬほどの孤絶。かのじょの頭のうえで、ほぼ咲きおえた赤い花がいまにもこぼれかかっている。「カラスアゲハ」を書きおえて、よかったなとおもった。ギブアップしないでよかった。あれは書かなければならなかったものだ。書かせない敵はわたしのなかにいた。帰途エベレストにのぼった。安倍首相が核安全保障サミットで、原発の大規模再稼働を前提として、「核燃料サイクル」の推進を勝手に表明するらしい。これは民意にかんぜんに反する。なんということだ。マスコミは安倍のバラエティー番組出演を報じるばかりで、「核燃料サイクル」の危険性にさっぱり触れない。官邸のメディア対策により、ほとんど全マスコミが権力への追従とおべんちゃらだらけである。恥を恥ともかんじていない。(2014/03/22)

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・犬、コビトとオンブル・ヴェールへ。ユキヤナギ、ヒュウガミズキ、コブシ、ハナモモが咲きはじめていた。ハナニラはとっくに咲き群れている。去年の3月17日からもう1年以上がすぎているのに、たったの1週間ほどにしかかんじられない。なぜだろう。マテバシイの緑にとくだんの変化はない。カフェからの眺めには、どんなに猜疑心をつのらせたとしても、怯えるべきなにものもない。「つまり、言い換えれば自我のさまざまな機能を行使することが不可能か余計なものとなる状況が生じた場合、自我は消滅したも同然である」。ということか。エベレストにのぼらなかった。(2014/03/23)

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・ダフネでナポリタン。おいしくなかった。エベレストにのぼった。天から垂れるように、シダレヤナギの花が咲いていた。はじめてではないはずなのに、はじめて見た気がする。そのようなことをふだんまず口にしないひとが、けふ、少し声音を変えて、わたしに問うた。「戦争はじまるんでしょうか?」。言わないひとがとつぜんそう言ったのにたじろぎ、わたしは即答できなかった。シェーンベルク「浄められた夜」。これもはじめて聴いたかのように、おどろくほど新鮮だった。「カラスアゲハ」(「文學界」5月号)がけふ校了。大道寺さんに手紙書く。いや、左手でキーボードを打ったのだ。(2014/03/24)

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・エベレストにのぼった。麓にシダレヤナギやカシワがあるのは知っていたが、ヤマモモにはけふはじめて気がついた。花期は3〜4月、雌雄異株で、数珠つなぎに小さな桃色のあまり目立たない花をつける、と図鑑にはあるが、わたしの見たのがオスだったかメスだったか、あまり目立たない桃色の花がさいていたか、もう憶えてはいない。物事にはなぜ名前がいるのだろう。ヤマモモの実を去年、そうとは知らず、わたしは気味わるがった。なんとなく、毒のような気がしていた。ヤマモモは、さらに、チョウセンヤマモモ、ヘノゴヤマモモ、ニセヤマモモ、スケベヤマモモ、フグリヤマモモ、ママンコヤマモモ、ボボヤマモモ……といった命名により、近寄られなくなったりする。意味のない言葉たち。すべてはすでにかんぜんに消滅していても、いっこうにかまわなかったのだ。その後には、たれひとり語る者とてなく、語られるものもなく、語る言葉とてない。としたら、みなさま、いまよりはよほどマシではないか。といった気分がわたしには濃くあり、「カラスアゲハ」にも、ひっきょう、その気分はにじんでいるとおもう。(朝と昼の時間たちがそれぞれの場でワルツを踊り、回転し、たがいに歩みより、反身になり、差し向かいでおじぎする。後ろにいるパートナーの男たちが腕をあげてアーチを作り、手をおろし、相手方の肩にふれ、上にあげる。)……そんなものだ。どうでもよい。すべてはすでにかんぜんに消滅していたとしても、いっこうにかまわなかったのだ。一概に非在を悲しみ存在をよろこぶいわれはない。(2014/03/25)

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・「すべての絶えいるものをいとおしむ……」ことは、言葉としては、金時鐘(キム・シジョン)訳(名訳!)の尹東柱(ユン・ドンジュ)詩集で知ったのにほかならないのだけれども、それいぜんから、そのような心根か仕草にこそ、なにか、ここからでて、あちらへとゆくひとすじの小径があるようにおもえてならなかったのだ。「葉あいにおきる風にさえ/私は思い煩った。」とは、なんという美しい朝鮮語/日本語訳であろうか。夕、新宿にいった。夜、コビトとビルの53階にいた。エレベーターのなかでわたしは自嘲して言った。屍体は夜、あるくべきではない、と。右半身がコンクリートのようにかたまり、昏倒寸前になった。エベレストにのぼらなかった。(2014/03/26)


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2014年03月14日

4.26講演


◎4.26辺見庸茅ヶ崎講演

辺見庸は、2014年4月26日午後1時から、神奈川県茅ヶ崎市のカトリック茅ヶ崎教会で講演をする予定です。講演タイトルはなにかが起きている――足下の流砂について。講演時間は約2時間です。
・主催:ピースカフェちがさき、文教大学team One
・協力:チームみつばち 鈴木光子
・アクセス:カトリック茅ヶ崎教会は茅ヶ崎駅から徒歩7分

4月26日辺見庸茅ヶ崎講演ポスター.JPG
(クリックで拡大)

メッセージ…表題「なにかが起きている」は、イタリアの作家ディーノ・ブッツァーティの短篇「なにかが起こった」からヒントをえたものです。疾駆する特急列車。ふと窓から外を見ると、たくさんの人びとが、列車の進行方向とまったく逆の方角に、走って逃げてゆきます。みな恐怖のあまり逃げまどっているのです。列車の行く先で、なにか大変なことが起きているのにちがいありません。しかし、乗客たちは、内心、とても不安におもいながらも、窓外でなにが起きているのかを問うたり調べたりして知ろうとはしません。乗客には「なにかおかしいのではないか?」と感じていても、そう叫ぶ勇気がありません。ですから、列車を停めようともしません。列車は災いのみなもとに向かってひたすら爆走してゆきます…。この暗喩からなにをイメージするか。そこからお話しさせてください。わたしたちは災いにむかって暴走する列車の乗客ではないのか。つまり、わたしたちの乗った列車は、ほんとうに行きたい場所とはまったく逆の方向に走っているのではないか。いま、なにが起きているのか。それを、なぜひとり手をあげて訊こうとはしないのか。暴走列車をなぜ停めようとしないのか。集団をたのみとするのではない、ささやかな「個」の勇気、ひとりのたちいふるまい、ひとりの言葉、ひとりの声、ひとりの表現――の可能性についてかんがえます。
(辺見庸)

チケットは全席予約済みとなりました。

予約キャンセルおよびキャンセル待ちをご希望のかたは下記まで電話もしくはメールで
 ご連絡ください。 

 生越(おごせ)0467−53−4448/浦田(うらた)0467−86−7319/
 熊谷(くまがい)kumasmi1113@gmail.com

・会場の収容能力は約300席です。混雑が予想されますので、ご協力をお願い申し上げま
 す。




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2014年03月13日

日録9



私事片々
2014/03/13〜

フェンス.JPG

・ミスド。雨模様なので、犬おいていくと言ったら、犬ブーイング。でも、犬おいていく。ドーナツ2個、肉ソバ、コーヒー2杯。木の芽を見に外にでてまもなく、ナニをもよおし、事態いとただごとにはあらざりけるにや、あわててまたミスドへ。障害者用トイレに直行。大泄小泄・同時・一気敢行に成功す。すっきり。ドーナツ2個、肉ソバ、コーヒー2杯、なんのことはない、ぜーんぶ店にバックしたことになる。ケツ・シャワーのボタンがあるので押すも、シャワーいっこうにでず、ボタンはダミーとわかり、激怒。「ダミーのボタンとは呆れるぜ、ここは刑場か、東京都公認身障2級を差別しとんのかぁ、われぇ!」とわめきけるほどに、「お客さん、お客はん、便所でなんばさわいでけつかるんどすかぁ?」の声。あれ、コビトではないか。「便所は、たれるとこ。さわぐとこじゃなかとですよ。お客はん、よろすぃかったら、おまはんのまっこときったなひおいど拭くの手伝いまひょか?」。は、はい、わかりまひた。トイレでて、コビトとコーヒー。『永続敗戦論』のことをちょこっと話す。「身体」「生身」「主体の立脚点」「徹底的パシフィズム(pacifism)」「まったくもってとるにたりないもの」「根生いのもの」「個の責任」…などについて、ぶちぶち詮ないことをつぶやく。最後に『永続敗戦論』はとても参考になったけれど、じぶんの骨身にしみるものではないな、と言ったら、コビトは「やっぱり」という目でわたすぃを見あげた。「カラスアゲハ」を書いてよかったとおもった。帰り、エベレストにのぼった。(2014/03/13)

梅.JPG

・10年前のけふ午後、わたしは新潟で脳出血にたおれるも、死にぞこなった。あのとき一発でいっておけば、見たくもないことどもを見ずにすんだのだ。その後もがんになったけれども、みなさんすみません、また死にぞこなって、本日、2014年3月14日も、まだいじましく生きさらばい、見たくもない景色を見るはめになっておりますことは、まことにもってわたしの不徳のいたすところであります。しかしである、生きていて多少はよかったこともないではない。第一、わたしはけふ、尹東柱(ユン・ドンジュ、1917年〜1945年)の詩集『空と風と星と詩』(金時鐘=キム・シジョン編訳、岩波文庫)を開き、薄汚れ黄ばんだ目をまたも清々しく洗われたではないか。「すべての絶え入るものをいとおしまねば」の1行が、わたしにとりどれほど大事な1行であることか。「すべての絶え入るものをいとおしまねば」。尹東柱によって朝鮮語で書かれ、金時鐘により日本語に訳されたこの1行が、どれほど清冽であることか。おい、ニッポンジン、在日コリアンたちよ。もしも、すべての絶え入るものをいとおしまなければ、この世のすべてはほんとうにだめになるのだ。「すべての絶え入るものをいとおしむ」ことがいま、基本中の基本である。おい、若いニッポンジン、若い在日コリアンたちよ。尹東柱が1945年2月、どこで死んだか、ぶち殺されたか、知っているか。治安維持法違反で投獄されていたニッポン国・福岡刑務所で、である。おい、若いニッポンジン、若い在日コリアンたちよ。日本当局が尹東柱死去を親族に知らせた電報の文面を知っているか。もしも知らなかったら、どうかどうか、忘れずに憶えておいてほしい。「一六ニチトウチュウ シボウ シタイトリニ コイ」。金時鐘は書いた。「まるで物か、そこらで野垂れ死にした犬ころ扱いです」。そのとおりだ。シタイトリニ コイ。「すべての絶え入るものをいとおしまねば」と書いた若き詩人を、ニッポンジンはモノか犬ころあつかいした。忘れてはならない。わたしの父と父の戦友たちは、慰安所のまえにズボンのベルトをはずして並んだ。じぶんの番を足踏みして待った。1人で1日何十人もの兵士のからだを受けいれざるをえなかった韓国の婦人たちの話をわたしはじかに聴いた。忘れない。歴史には外交文書だけではなく、生々しい身体と痛みの記憶およびそれらのディテールがかかわっていることを、おい、若いニッポンジン、若い在日コリアンたちよ、忘れないようにしよう。「死にぞこない10周年」を勝手に記念して、わたしはけふ、友人、朝鮮新報の朴日粉記者のインタビューをうけることを決め、そのむねを記者に連絡した。すべての絶え入るものをいとおしむために、なにかをしなければならない。エベレストにのぼった。(2014/03/14)

小さな花.JPG

・ファシストはいくつもの口をもち、幾種類もの顔と声をもつ。口、顔、声をときどきにつかいわける。米国にとりいるためなら、どんなみっともない踊りでも平気で踊り、前言をいくらでもひるがえし、ひとびとを裏切り、いかに恥ずべき遁辞でもあえてろうし、あらゆる種類の嘘をつきまくる。なんというやつらか。みずからの権力維持、ただこの一点のために、かれらは天皇を利用し、生きのびる。「歴史に対してわれわれは謙虚でなければならないとかんがえている」。ワハハハハ。いま歴史を全面的にくつがえしている当の本人が、用意された紙を見ながら、そう言うのだから、笑うほかない。君はかつて「日本の歴史がひとつのタペストリー(つづれ織り)だとすると、その中心に一本通っている糸はやはり天皇だと思うのです」とかたり、「自衛のための必要最小限度をこえない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものであるかぎり、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と、核武装肯定を揚言したではないか。君は「大東亜会議」と大東亜共同宣言(1943年)をいまでも賛美する「日本会議」ときわめて緊密な関係をもつ、れっきとしたファシストの頭目ではないか。エベレストにのぼった。ミスドにいった。(2014/03/15)

過去1.JPG

・うらうらと死なむずるなと思ひとけば心のやがてさぞとこたふる んなこた、あんた、「嘸」もなにも、あたりマ×コのちぢれっ×だろ。みなさんうらうらとかんたんに死ねなひさかい、えろ困ってるんだよ。諸行無常、是生滅法、生滅滅巳、寂滅為楽…これみなニッポン・ファシズムの原理じゃあーりませんか。わが世たれそ常ならむ、などとほざくところからはじまって、低脳政治、低脳マスコミ、低脳人民――の3本の矢、いやさ、三位一体が、ここにつつがなく完成いたすぃたのだ。こふなったら、ガンガンわめきちらすぃ、どつきまわすぃ、すぃばきたおすぃ、のたうちまわってなにがわるひ!?と、甲斐なくおもうていたところ(ほんたうはおもふてなんかなひです。時間のむだ。バルトーク聴いてたのさ)、ピンポーン。えっ?梅川さん!とつぜんの来訪!ビックリ。やれうれすぃや。あいかわらず、色白ポッチャリ、眠たげな目、無口。初対面なのに、犬ぜーんぜん吠えず。梅川さん、あの日のオクラホマミキサーのときめき、指の感触まで、すべて記憶すぃていた。わたすぃたち、すぃずかにいろんなことを話すぃ、ハグすぃあい、なにか予感どほりに、高齢者推奨簡便型69(後述)など、いろんなことをすぃたのどぇす。年寄りじゃけー、なかだすぃOK。偈。マジえがった!犬吠えず、ただただ呆れて黙認す。エベレストに2回のぼった。梅川さんと、あのあと、ダフネにいった。ふたりすぃてカイチュウナポリタン食う。すぃはわせ!日刊ウンコ新聞のエッセイ寄稿依頼ことわる。ああ、スッキリ。(2014/03/16)

鉄の表皮.JPG

・備忘。明日、「週刊金曜日」主催の対談で、話すかもしれないこと、話すべきこと…。ナチスのグノーシス主義(善悪2元論)は、伝統主義と混合主義とオカルティズムによってはぐくまれた。靖国参拝はこのうちオカルティズムに類するだろう。天皇利用主義もしかり。ここに、知の発展はどうしてもありえない。ファシズムにはこれといった定型、定義はない。あるとしたら論理的、哲学的には「蝶番のはずれた」、本質的に情動的な原型だけである。ファシズムはだから民衆にもてはやされるのだ。ファシスト安倍の内面の闇は、ネット右翼の内面の闇にかさなり、交差し、齟齬なく融けいる。「差異の恐怖」「よそ者排斥」「知的コンプレクス」にかんけいする情緒が、闇の底にただよい、うずまき、これら諸要素が意識的にせよ無意識的にせよ、人種差別をみちびいている。安倍には縒れて湿気った被害者意識がある。「日本会議」「日本会議国会議員懇談会」をどうかんがえるか。日本ファシズムの微細な神経細胞について。異様な風景をどう感じるか。籾井、長谷川、百田、小松らの狂気と正気。言論、報道の異常収縮=「内側からの死滅」をどうみるか。「新しい多数派=新中間層」をどうみるか。戦後レジーム脱却反対論と戦後民主主義勢力の没主体性と過誤、それらゆえの致命的弱さについて。戦後レジームからの脱却路線にどう対応すべきか。なにを対置すべきか。徹底的非武装・反戦論は不可能か。安倍ファシズムはどこまで暴走するか。抵抗は可能か。社民はなぜ瓦解したのか。共産党に希望はあるか。いま、なにが予感可能なのか。近未来になにが見えるか。今日的暴力の意味。国家テロの予感。プーチンとスターリン主義。「人間の侮辱」ということ。原発と戦後民主主義。「良心的知識人」とはなにか。かれらに危機感はあるか。戦後民主主義と大江健三郎。日中戦争はあるか。日本核武装はありうるか。ありうべし。次はなにか?(2014/03/17)

日なたの錆び.JPG

・全体に、よかどすきん。めぞどすけなことは基本的にかなってん。対談は3時間をこえた。ぶつかるということはになも、あにゃ、かなってん。前回、対談したのは16年まえという。16年。世の中は大きく変わった。変わっていない、といえば、変わっていない。お話ししたい。うかがいたい、とおもっていたことの半分くらいは自然に、まちりらのものめね、ほじゃけん、よかどすきいね。になか、みした。れそはなにどすけ、とまい自問れすば、なんだらう、魯迅、エスペラント、アナキズム、ひとというものの「どうしようもなさ」、たしわもちき無責任、いま首に突きつけられた匕首をどうするか(しわたが言うた)…などのこと。野中君が往き帰り同道してくれた。すばらしい若者。向井君にも久しぶりに会えた。バルトークのピアノコンチェルトをもってきてくれた。「撤退戦」ということばがあるのかどうか。聞きちがいか。ガチでひとりでやるか。ようするに、さんざ撃たれても、それでもひとりで突っこんでいくかどうか。はい、突っこんでいきます。いみたひなとこひ、いい年寄りがそぼそぼすぃりますぃどすきん。あにゃよか時間どすきん。夕刻、ふぃずぃまりふるる
肉茎ズマキズキ、やりはコビト登場!コーヒー異常高すぎ。許すまじうら。(2014/03/18)

あまりにも赤い花.JPG

・ミスドで落合さんとお会いする。遠路ご足労恐縮至極。感謝。大道寺さん新句集につき正式にお願いした。1年後刊行目処。この先1年、いったいなにが起きるのか。どうしてもそういう話になる。文學界から「カラスアゲハ」の初校ゲラくる。きのうとどいていたのだが、疲れてPC開けず、けふ気づく。明日戻す予定。小澤征爾指揮、シカゴフィルのバルトーク、シェーンベルク・ピアノコンチェルト到着。右肩痛。コビト&犬LSV→ミスド。往路、犬、横断歩道中央でとつじょたちどまり、しゃがみこんで大排泄1回敢行。帰途、コビトとともにチェックしてみると、犬shit、横断歩道に平たくハート型に練りこまれていた。あにゃ、どうぇすどうぇす。(2014/03/19)







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2014年03月10日

短篇寄稿


◎「文學界」に短篇小説「アプザイレン」発表

2014年2月上旬発売の「文學界」3月特集号に、辺見庸の短篇アプザイレン
約37枚が掲載されています。

1月9日のサバノアール.JPG
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2014年02月28日

連載中


◎エッセイ連載中

生活クラブ連合会の月刊誌「生活と自治」に2014年1月からエッセイ「新・反時代のパンセ」を連載中です。
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2014年02月27日

日録8


私事片々
2014/02/26〜2014/03/12

逝った花.JPG

・友、堀内良彦が2014年2月25 日午後8時ごろ、逝った。(2014/02/26)

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・友、堀内良彦は血友病患者でHIV感染者だった。すでに肝臓がんを併発していたのに、福島県の放射能汚染地にたびたび入り、東電に抗議し、血友病患者支援にもあたっていた。そうせずにはいられなかったのだ。「戦死」という言葉はきらいだから、つかわない。良彦はただ、ずっと悪戦苦闘し、のたうちまわり、ついにひとりで逝きやがった。昔、文化学院でかれを知った。いっしょに教育テレビにでたこともあった。たびたび助けられた。とてもはげしく憤り、とてもやさしく愛する男。カサヴェテスについておしえてもらった。飼っていた犬は柴のペロ。良彦より先に死んだ。存在していた者が不意にいなくなるのはあまりに奇妙だ。不当だ。(2014/02/27)

グラス.JPG

・悔いている。こちらが生きるのにかまけて、堀内良彦の死の瞬間を知らなかったこと、その前に声をかけてやれなかったこと。失念していたわけではないのだが。気になっていたのだが。おれたちはカサヴェテスを愛した。それと、「ヘンリー/ある連続殺人鬼の記録」を、いっしょに偏愛した。良彦はわたしをヘンリーとよび、じぶんをヘンリーの相棒だった、結局ヘンリーに殺される悪党として、ひとしきり「どうあっても救われぬ悪人」を演じたこともあった。虫一匹殺せない男が。テレビをつけて堀内良彦死去のニュースをさがす。これだけの大ニュースをどこも報じていない。ひどい話じゃないか。くだらない世の中じゃないか。これほどの大事件をつたえていないなんて。ゴミネタばかりだ。空を見あげる。(2014/02/28)

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・堀内良彦と夕暮れの観覧車に乗ったことがあった。テレビ撮影のためだったが、深海みたいなたそがれの宙をいっしょにまわったのを忘れない。ゴンドラのなかで、かれはなにか大声で叫んでいた。しかし、道路工事中だったのか騒音がひどくて、よく聞きとれなかった。わたしは、観覧車のなかで問うたのだった。腹が立たないか、と。良彦が答えた。騒音にかき消された。えっ、と聞き返した。するとかれがわめいた。ブッコロシタイ。ソノグライ、オコッテマス。そこはたしか、編集できれいに削除された。ダウンしたわたしのパソコンをなおしに、夜中の3時に自宅に駆けつけてくれたこともあった。心に皮膜のない、危ないほどむきだしのあの男に、わたしはただ助けてもらうだけだった。迂闊だった。昨日、小枝をくわえたキジバトがきた。逃げなかった。キジバトと目があった。(2014/03/01)

プロスペクト.JPG
(カタロニアの丘)

・それがごく穏やかなものにせよ、苛烈にせよ、目にはよく視えないにせよ(おおかたは視えないものだ)、こう言ってよければ、わたしの戦線はすでにある。だれしも各個の戦線がある。じぶんの戦線は、まるでカナヘビの細い影のように、極小である。でも、それをじっと見つめることだ。そこから逃げないことだ。できれば、それをあからさまにすることだ。この3年、いったいなにが起きて、なにが起きなかったのか。鬱々とかんがえていたときに、堀内良彦がひとりで逝ったのだった。この3年、いったいなにが起きて、いま、なぜこんなひどいことになっているのか…ずっと昏睡しつづけていたように、しょうじき、わからないでいる。ただ、かれのあの激怒と共感と絶望が、ほんとうにたぐいまれな、立派な能力であったことだけは、いくら迂闊なわたしにだって、わかる。強者への激怒と弱者への共感とじぶんへの絶望…。(2014/03/02)

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・3年間、なにがあったのか。昨夜、「2014.02.28経産省対話集会:急逝した堀内良彦氏への追悼アピール」と題された動画を見た。良彦らを追悼した集会記録なのに、経産省前にあつまった若者たちのなかに、良彦がいないかついつい探してしまう。「経産省はよく聞けよ―!」、「原発やめろ」、「いますぐやめろ」、「原発反対」、「再稼働反対」、「原発輸出も絶対反対」、「武器の輸出も絶対反対」、「TPP反対」…ラップ調でシュプレヒコール。タンバリンやトランペットの音も聞こえる。良彦もここでこうやって、痛むからだをうごかして、リズムにのせて声をはりあげていたのだ。リーダーがラウドスピーカーで呼びかけている。「堀内くーん、聞いてるかーい?…雲のうえで遊んでてください。あとはぼくたちがやるから…」。よどみない声が夜空に吸いこまれていく。3年間、こういうことだったのだ。エベレストにのぼった。(2014/03/03)

水の影.JPG

・ブログ休載につき、だれにともなく、お詫びすぃます。ご心配とご迷惑をおかけして、まことにすみませんでひた! 礼。3月4日からいままで、エベレストにのぼったりのぼらなかったりした。短篇「カラスアゲハ」70枚をシコシコ左手で書いていまひた。一昨日(2014/03/10)いちおう決着。3周年は意識せず。が、無意識に書くのを迫られていたかもしれませぬ。載ったら読んでね。全篇「や・り・ま・く・り」の短篇につき、よろしう、おたのんもうします。麻痺急進行につき、半屍体的状態恒常化。「半屍体のパンセ」やね。わははは。堀内良彦逝去の空洞、埋まらず。やつを夜半におもいだすも、気がつけば、メールも電話もできない。バルトークのCD買う。佐高さんと近く対談することをきめる。それとなんもかんけいございませんが、コビトのすすめもこれあり、『永続敗戦論』読む。ローカルな古語で言へば、サンペコ(インケイ)とヘノゴ(コウガン)がむずむずする。マジ戦時なれども、某紙エッセイ引きうける。(2014/03/12)



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2014年02月17日

日録7



私事片々
2014/02/17〜2014/02/25

こぶ.JPG

・さすがに、もういくたりかわかりませぬ。この街にましますたくさんのマリア様にイエス様。雪がとけのこる泥道をダフネにむかう。自転車をひいたおばさんが、ほとんど金切り声で叫んでいる。「転ばないでくださいよお。転ばないでくださいよお!」。だれにたいして言っているのか。全人類にむかって注意を喚起しているのであろうか。余計なお世話。もはや転んで死にたいやつだっているだろうに。見まわせる範囲でひととおり見まわす。反転して、おばさんとパチッと目があう。「転ばないでくださいよお。転ばないでくださいよお!」。わたしにたいしコベツグタイテキに叫んでいたのだ。見えないマリア様を、見て見ぬふりし、聞こえぬふり。すこし睨めたりして。顔ですごんで心で感謝。おお、サンタマリア!その御心に、ああ、その御心に、それがしの心が饐えるのさ。るせえんだよ、クソババア。意地であるいてダフネ着。貼り紙。「サナダムシ品切れにつき本日臨時休業」。なにがおきているのか、わからないことだらけです。無表情をよそおい、ねんねん猫背でひきかえす。めずらしくよいことひとつ。2、3日まえのこと。すこし気になり、ちょっと好きだった詩人を、あらためて精読したら、ガーン、うんと好きなことがわかった。そんなこともあるんだね。まだ生きてるとばかりおもっていたその詩人、ガーン、じつはとっくの昔に(雪道に転んで、じゃないけれど)死んでいたことも、いまごろ発見。そのことで、どうしてかなあ、ますます好きになる。当面の脱出口できました。けふもエベレストにのぼらなかった。(2014/02/17)

雪道の影.JPG
(エベレスト東側稜線にて)

・先日精読してみたら、とてもおもしろいとおもわれた詩人は、昨日あたりから色あせてきて、けふにはついになんでもなくなった。溶けたざらめ雪。どうしてなのか。どぼじでなのか。どってぇ?トポチテ?本音をゆってもよかですか。肯綮にあたらないからだ。どころか、無意識的にか意識的にか(両方だろうな)肯綮をはずすからだ。毒がありそうで無毒、まったく無害。どうかすると、へんに癒やされちゃたりして。危険スルー、反動スルー、日の丸スルー、てんてん天ちゃんスルー、慰安婦スルー…ああ、やだ、やだ、おら、やんだ。なるへそ、どうりで、賞は総ナメこちゃん。ずぃぶん、不明恥じます。「かつて、死に人が群れていたころ、あなたは身をひそませた、わたしのなかに」(ツェラン「かつて」飯吉光夫訳)にもどる。もどりる。けふも駅前コースでダフネを目ざす。やっとこ着いたら、店にシャッター。貼り紙。「お詫び 活きカイチュウ未入荷のため臨時休業します」。まったく理解に苦しむのだ。が、理解に苦しむことばかりなのだから、理解に苦しむ顔せずに、ひーちゃん、みーちゃんたちとおんなしに、なんもなかったそらっとぼけ顔にて街あるき、雪のエベレストへ。えーい、ここで死んでも悔ひはなひ。滑落覚悟登攀敢行万世一系耳垢恥垢の山男。ふだんより2倍かかって頂上へ。帰宅すぃたら、性同一性障害気味の犬(5つ)にぱかにされる。ト長調、4分の4拍子で。ワンワンワワワンワワワワワ…。(2014/02/18)

黒い雪.JPG

・現代日本彫刻作家展。そこで靖国参拝などを批判した作品の撤去を東京都美術館が求めていた。こんなことがいたるところで、日常的に起きるようになった。「時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA円墳―」。高さ1・5メートルのドーム状の作品で、当初は「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう」という手書きの紙を貼っていた。それのどこが悪いのか。東京都美術館は作者らにアピール紙片の撤去を求めて「折り合いがつかなければ、展示会の中止や来年度以降の施設使用の見なおしも検討せざるをえなくなる」と脅したとう。まるで1930年代。都美館に電話するなりして、ひとりびとりが抗議しよう。面倒くさいけれど、しかたがない、怒ろう。焦ろう。けんかしよう。やらなくてはならない。あれはくるだろう。99.99パーセント、まちがいなかろう。もうきたのだ。たのまれもしないのに権力のお先棒をかつぐ連中が、雨後の竹の子のようにニョキニョキと元気をだしている。激震の予感がある。じぶんの内面にか、外面にか、まったく理解のあたわぬことがくるだろう。NHKの籾井たちが「なにが悪い!」と、もうひらきなおっている。彼らの態度とときたら、ヤクザそのものだ。某紙社長が安倍晋三と会食したとしきりに悦に入っている。全面的にidiot JAPONICA。すでにきつつある。こないなら、こさせよう。戦端をひとりでひらこう。それでいい。犬を残し東口のミスドに。コーヒー、クリームパン。降圧剤と、血液サラサラ剤、胃薬をのもうとテーブルに錠剤をならべていたら、女性店員に「サユをおもちいたしましょうか?」と声をかけられ、耳を疑った。さゆ。とっさに漢字が浮かばない。白湯か。なつかしい。「セーキはじぶんで洗いますか?」。病院の風呂場で、高校でたてくらいの明るい看護助手に言われたことがある。セーキ。あれからもうすこしで10年がたつ。セーキはさっぱりつかってない。セーキ不使用のうちにファシズムがきた。じぶんの身近がいちばんあぶない。じぶんと配偶者、恋人、親兄弟、同僚、アホ上司、クソ会社、バカ学校…があぶない。「権力の右傾化」と言うはやすし。問題を外在化するのがいちばん簡単だ。しかし、おのれの足下のこの流砂をどうするのか。流れるじぶんをどうするのか。徒労を承知でけんかするしかない。負けを覚悟して、どつきあうことだ。Aさん、自殺はしばらく延期しようぜ。お願いします。障害者は障害者なりに、まだ動く口なり手なり指なりで、まず、けんかしよう。もっと狂いましょう。けんかしまくって、野垂れ死にしましよう。先に逝った者たちの、これからは弔い合戦だ。なんどでも、なんどでも、けんかしよう。短篇ふたたび中断。ダフネに行ったら、また貼り紙あり。「ベンモウチュウ入荷待ちのため臨時休業します」。はい、了解。OK。OK牧場。エベレストにのぼらなかった。(2014/02/19)

歯医者の帰りに撮った樹.JPG

・さもあらばあれ、造化の翁がつくりなしたる活世界、げにや醜き日の本の、かくまでおぞましき安倍晋三と籾井勝人!胸くそがわるくなる。歯医者。歯医者のトイレで小排泄。小便の湯気にさえファシズムがくゆりたつ。帰りにエベレストにのぼった。気分晴れず。短篇漸進。でもないか。(2014/02/20)

蒼い雪.JPG

・なに?閣議決定つまり首相の意思ひとつで集団的自衛権の行使が可能になるだと!?一大事だ。とてつもない発言である。驚天動地の暴論だ。これこそ号外ものである。臨時ニュースをなぜ流さないのか。君たち、編集局長、記者諸君、ニュースの軽重、順列がひっくりかえってるぞ。人権弾圧オリンピックなどクソくらえでよい。なんということだ。安倍晋三は憲法第96条論議をひっこめて、こんどは、ヒトラー内閣が1933年に成立させた「全権委任法」(国民と国家の危難を除去するための法)を真似しはじめている。安倍の発言は「立法権を政府に委譲せよ」というのにひとしい。「全権委任法」によりドイツがどうなったか、だれもが知っているはずではなかったのか。ワイマール憲法は完全に死文化した。日本国憲法も死文化させられようとしている。安倍は戦時体制をつくろうとしている。弱虫は弱虫なりに、泣き虫は泣き虫なりに、怠け者は怠け者なりに、引きこもりは引きこもりなりに、パラサイトはパラサイトなりに、死にぞこないは死にぞこないなりに、犬もネコもスズメもミミズも、「反対!」の声をあげよう。そして、安倍たちにここまで自信をつけさせている「恐怖の気流」についてかんがえてみよう。エベレストにのぼった。(2014/02/21)

金属.JPG

・エベレストにのぼらなかった。チョコを4粒食った。ヘドロのようにからみつく言葉をたちきって、〈それぞれがそれぞれの夜のもとに、それぞれがそれぞれの死のもとに、無愛想に…〉あるいて、たちもどればよいのだ。それだけの話だ。だれもこないし、どこにもいかない。(2014/02/22)

大嘘つきのチューリップ.JPG

・エベレストにのぼった。ダフネにはいきませんでした。犬を散歩させてもらった。散歩させてもらうって変ないいかたですね。犬が雪の上でオシッコした。黄色い染みができた。雪が冷たいもので、犬は前肢をかたほうあげていた。展開というほどのこともないのですが、ちょっと展開のようなことをいたしました。どうなるかはわかりません。チョコを4粒食べました。コーヒーをマグカップで2杯飲んだ。韓国製加湿器に、自力で、水を満たす。とても重かった。きょうではなく、昨日のことだったかもしれない。(2014/02/23)

過去.JPG

・なし。エベレストにのぼりませんでした。ひとしきり助詞について悩んだ。犬を散歩させてもろた日に、空になった韓国製加湿器のポリタンクを自力にて水で満たした、じゃなく、韓国製加湿器に自力で水を満たす、か。それからですね、ですます調とである調の混在について、じぶんでわざとそうしておきながら、とてもひるみました。われながらとまどったのであります。コーヒーをマグカップ3杯。犬不在時に、クリームパン2個、わりわりと食う。犬にたいする罪悪感すこひ。クリームパン残り1ケ。大排泄1回。小排泄5回。犬、遠吠え1回。(2014/02/24)

軽石の闇.JPG

・なし。エベレストにのぼらなかった。もう3年になる。大震災の翌月、2011年4月24日早朝に放送された「こころの時代 瓦礫の中から言葉を――作家・辺見庸」が、来月3月4日の午前2時40分から、NHK総合テレビで再放送されるという、噂というか情報がある。NHKの放送予定表にも載ったようだ。だが、このご時世である、にわかには信じがたいので、へえ、そうなの!?と反応するにとどめた。皆が寝ている時間帯。どうということはないと言えば、どうということはない。にしても、この3年、予想どおり、いや予想以上に、ものごとすべてが悪くなった。NHKはいま、3年前にもまして、この国のネオファッショの重要な一翼をになっている。とりわけ、報道はすでに、最低限の魂まで失ったガラクタにすぎなくなった。まことに見るにたえず、聴くにたえない。籾井勝人は居直りヤクザよろしく下品にいすわっている。即刻辞めるべきである。経営委員会は解体すべきである。百田某、長谷川某らの病的異常発言を、わたしはどのような観点からも断じてみとめることができない。再放送の真偽はどうあれ、以上、あらためてわたしの立場を明らかにしておく。「花は咲く」オンパレードの今日の景色を、どこまでも怪しむ。(2014/02/25)
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2014年02月08日

日録6


私事片々
2014/02/08〜2014/02/16

by Kobitt.JPG
(by Kobitto)

・The雪。アパートのドアをあけることもできなかった。ので、エベレストにのぼらなかった。過日、本ブログにまだ慣れていないらしいむきから、カフェ・ダフネとその客らに関し、ご質問があった。ダフネはほんとうに実在するのか。鼻や耳でナポリタンを食うひとがいるのか。おかしいではないか。鼻や耳でナポリタンを食うひとびとにたいし差別的ではないか。あなたの視界はゆがんでいるのではないか。カフェ・ダフネさんにたいし失礼ではないか。無可奉告(ウークーフォンカオ)。ノーコメント。だが、アホに税金をはらって首相をやらせ、エテ公に副首相をやらせて平気でいる神経にくらべれば、鼻でサナダムシ・ナポリタンをすすり食いするくらい不思議でもなんでもないでせう。カフェ・ダフネはむろん実在する。けふも雪のなか営業ひていますぃた。カフェ・ダフネはどこにでもある。わたすぃやあなたの脳内にもある。「すべては、人びとが権力について抱いている観念(幻想)しだいだ。知性が権力の前提だと考えるなら、権力に愚劣さがいつまでもつきまとう状況は説明できないだろう(もっとも、権力が知性を伴った、ごくまれな実例の場合でも、この種の知性は、たいていすぐに愚劣さに合流する)」。愚劣は権力の属性であり、公的特権でもある。と、『なぜ、すべてはすでに消滅しなかったのか』で、ボードリヤールは言った。同じ本でかれは、「今日では、正常者とは、じぶんの存在や行為について、一方的で肯定的な同意だけにもとづいて生きている者のことだ」という、かなりわかりやすい「正常者の定義」をしている。すなわち、首相と副首相をやっていただいているあのアホや老いぼれエテ公は、じゅうぶんに「正常者」なのであり、非正常者であるわたくすぃどもズィンミンを利用し、同化(バカ化)しつつ、ファシズムを円滑に運営しているのだ。ザ・ファシズムとはそういふことである。そして、ザ・ファシズムって、ときに土民的であり、土民的感性をとりこみもする。see、「タバコのポイ捨て」描写へのばかげた反発、愚劣な報道!ザ・ファシズム花ざかり。(2014/02/08)

青い扉に見える、青くはない扉.JPG

・エベレスト冠雪のため登頂断念。犬をバッグにいれて、コビトとともに雪道をあるき投票所へ。途中、コビトと犬に、「背中に天使の羽をはやしたおじさん」に投票するようしつこくせまられる。ま、それでもいいっちゃいいのだけれども、なんとなく拒否。投票所は、暖かく静かで、みな親切で、視線がやわらかく、とても整然としていた。すでに20人ほどの良民の列があり、乱れもとどこおりもなく、おだやかな声と態度で受けつけをすませ、歩一歩、投票箱へとすすんでゆく。すばらしい秩序!強制も統制も威圧もなひ。武装警官も兵士もいなひ。銃剣なし。なにも問題なひ。ひとびとは自由意思でファシズムを選択しているだけ。なんてすばらすい民主主義。報道やCMがいふとおりに、季節感とスケジュール感をもち、みな同じような言葉でしゃべくり、テレビ番組がいうとおりに働き、笑ひ、泣き、うたひ、休養し、消費し、投票し、ことを荒だてず、多くのひとが好んでいるといわれているものを好み、多数者が憎んでいるといわれているものをともに憎み、原発事故をけろりと忘れ、NHKの宣伝どおりにオリンピックを楽しみ、「不幸のただなかにおける病的快感」に、みんなでいっしょに酔い、かつ麻痺し、日一日、歩一歩、刻一刻、うるわしい全体主義をじっくりと熟成させていこうではありませんか。選挙と民主主義の全体主義的ハーモニーよ!「主人を自由に選んでも、主人または奴隷がなくなるわけではない」のだ。だいいち、われわれは自由に選びも選ばれもしていない。「…とくに混乱期にあっては、市民たちは思考の働きを要求しない人物のほうに大挙してなびいてしまう」としたら、この国は一貫して混乱期ということになる。底がぬけ、たがの外れた樽を、ファシストどもが喜色満面で転がしている。図にのっている。(2014/02/09)

錆びた鉄の柱の冷たさ.JPG

・かならずしも暴力と強制だけではなく、選挙もまたファシズムの公的認証取得の手段のひとつであったことは、 ナチの歴史をみるまでもない。言いかえれば、投票行動も全体主義の生成過程に、好むと好まざるとにかかわらず、吸いこまれていく。さめて俯瞰すれば、選挙はやってもやらなくても、最初から結果がわかっていることになる。投票前から情勢は有機的にダイナミックにつくられてゆく。世論調査という詐術。広がるいっぽうの「沈黙の螺旋」。壮大なる愚民化とその奨励。自己検閲と自己統制を強化しつつ「報道の自由」をマンキツする報道機関。その権力機関との合体、不可視の統合。いったい、個人がどのように生きることが、せめても、せめてもだ、内心の自由に合致するというのか。陸橋の下でぷかぷかとタバコをふかし、暑い日も寒い日もなんとか暮らしていたオババは、ほんとうに消えてしまったようだ。友人がしらべてくれた。もう死んでしまったのではないかという。なによりの証拠に「におい」がすっかりなくなってしまったらしい。もよりの交番にきいたら「そういうことには答えられません。すみません」と言われたという。たぶんオババは消された。清掃されたのだ。けふはエベレストにのぼらなかった。コビトが病院にいった。昨日、大道寺さんから手紙がとどいた。(2014/02/10)

24 階の窓からみた雪.JPG
(by Kobitto)

・記念すべきけふの佳き日、犬がソファでまるくなり、尻尾と後ろ片脚を立て気味にして、しきりにインブかコーモンをなめているのだ。目がわるひため、はっきりとはわからないひので、どちらか断定はできなひ。露骨にたずねるのも、いくら犬とはいへ、失礼といふものだ。だがすかすぃ、わたひは知っている。犬が自己のインブとコーモンを同時的あるひはインブからコーモンへ、コーモン部からインブ部へと、交互に気ままにチャンポンに、なめるといふことはまずありへなひ。なめる趣旨といふか目的がことなるから、インブはインブ、コーモンはコーモンと画然とわけているのであり、交互に気ままにチャンポンに同時並行的になめているとしたら、それは犬ではなく、ヒトなのである。いずれにせよ、わたすぃとひては犬に注意を喚起せざるをえなかったのである。「あなたさま、あなたさま、けふがなんの日かご存知でせうか?」。犬、股に深々と顔をはさんだまま、一心不乱にセルフ・リッキングを続行、わたひを見上げやうともせなんだ。で、力なく首をふりつつ、わたひは告げたとです。「あなたさま、あなたさま、けふは、ひこなぎさたけうがやふきおちんこあえずのみことの第4皇子、かんやまといわれびこのすめはめまらのみこと、すなはち、神武天皇ご即位の、おめでたひ日なのですよ。そのやうなかっこうはつつしんだほうがよろすいのではないでせうか…」。犬やっと顔をあげ舌なめずりしながら「えっ、それなんでっかぁ?」といったん問うてくれはしたものの、再びアルマジロのやうに、おのが顔を股に埋ずめてインブまたはコーモンをなめはじめたのであった。なんというからだの柔らかさであらうか。すかすぃ、ヒト♀がこれをわたすぃの眼前にてやらかしたら、交際をひかえるほかなからう、とおもふ。これに関連する事項をひとつおもひだした。わたすぃが昔、客員でおすえていたバカダ大学のゼミ生がある日こっそりとあかしてくれた。かれの友人に、じぶんで毎日、自己の×××ンをなめている、からだのとても柔らかひ男がいる、ずぃぶんでやるのだから、お金がかからないのでうらやましくてしかたないのだ、と。「センセ、そういうの、英語でなんていうか知ってますか?」。わたひ「知ってるわけねえだろ、アホ」。かれ「‘ジ(自?)フェラ'っていうんですよ」。わたすぃ「…」。以上です。いやさか、です。バッド(下向き矢印)エベレストにのぼらなかった。ミスドにいった。(2014/02/11)

地割れのような樹肌.JPG

・いま、布施辰治について、学校で生徒に教えている先生が、日本にひとりでもいるだろうか。教員で布施を知るひとは、わたしの故郷でも、もう少なかろう。死刑を「国家によるテロである」と言いきり、早くから死刑廃止を主張したのは布施辰治(1880〜1953)であり、死刑廃止運動の先人のひとりだ。このひとにわたしは若いころから特別の感情をもちつづけてきた。最近、布施辰治のことをしきりにかんがえる。なぜかというと、死刑問題もさることながら、韓国・朝鮮にたいする、ただただ愚かとしかいえない蔑視と憎悪の感情が近年また頭をもたげてきているからだ。布施はあの植民地支配下、しかも治安維持法下、もっとも献身的に、危険をかえりみず、無権利状態のコリアンの救済・救援活動をおこなってきた希有の弁護士であった。かれは宮城県牡鹿郡蛇田村(現在は石巻市)の農家に生まれた。蛇田には若いころわたしも行ったことがある。絵に描いたような寒村だった。蛇田を現地では「へぴた」という。昔、新宿ゴールデン街にその「へぴた」出身のホステス、というよりとても貧しい老女がいて、店には零時をたっぷりすぎてから厚化粧で登場した。その時刻には客がみな酔っぱらっていて、妖怪のような顔でもごまかせるのだ、と本人が石巻弁で言っていた。彼女、まだ生きているだろうか。大震災―石巻―おびただしい死―蛇田出身の老ホステス―布施辰治―韓国・朝鮮蔑視再現…について茫々とおもう。布施は、1923年(大正12年)に、ほとんどの日本人が朝鮮半島併合を「当然」と手放しでよろこんでいたなかで、「日韓の併合は、どんなに美名で飾って居ても、裏面の実際は、資本主義的帝国主義の侵略であったと思う」と書く。関東大震災のさいの朝鮮人虐殺事件では、はげしい抗議行動、虐殺事件の真相調査活動をおこなったじつに数少ない日本人のひとりだった。「大逆事件」では朴烈・金子文子を弁護、当局による事件のでっちあげを立証しようとつとめており、1933年に治安維持法で逮捕されている。そうそう、布施は獄中で「自殺」したとされる文子の遺骨をひきとり、朝鮮の朴烈家の墓地に埋葬してもいるのだ。布施にかんし、わたしは学生のころ、昭和天皇への評価(戦争責任)などをめぐってやや違和感をもっていたが、いまとなっては、まさに惨憺たる、恥ずべきいまとなっては、その気骨に頭がさがる。同郷意識など、たいていはくだらぬものだ。つまらない。しかし、布施辰治の反骨には同郷人としても親しみをもつ。布施の他、江渡狄嶺(えとてきれい、1880〜1944)も注目すべき人物である。なによりも、大震災時に命がけで朝鮮人学生3人を高井戸の自宅に3か月かくまいつづけたこと。関東大震災では6000人以上の朝鮮人が日本官民の暴徒に虐殺されているのであり、朝鮮人を自宅にかくまっているのがわかれば、日本人も殺害の対象となりかねなかった。それほどの狂奔ぶりだったのだ。学ぶべきである。安倍はその歴史的事実をも塗りかえるというのか。時代はひどかった。ひどかった時代に、しかし、まったく少数ながら、時流に乗るのを断乎拒んだ「例外的個人」もいたことは、記憶の宝物というほかない。見わたすかぎり心が根腐れたひとの群れにあって、いま、 どうやってじぶんの居場所をさがすか。布施辰治、江渡狄嶺の生き方は思考と行動の参考になる。8月2日の宮城県講演ではそのことも話そうかとおもっている。きょうはエベレストにのぼらなかった。悪法中の悪法、秘密保護法がもちだされたとき、ろくな抵抗もしなかった新聞が、オリンピックで日本人がメダルをとったからといって号外をだした。「未開」とはこういうことをいう。(2014/02/12)

なんだかわからない写真.JPG

・歯医者に行った。麻酔1本できかず追加麻酔もう1本。顔がフランシス・ベーコンの絵みたいに、はげしくデフォルメされる。帰宅したら犬にじっと顔および口もとをみつめられた。看護師だか歯科助手だかが「ズッカー・ベイビー」みたいだった。つけまつげが鉛筆がのるくらい長かった。エベレストにのぼらなかった。(2014/02/13)

青い窓の電車.JPG

・昨日、歯医者の待合室で、元「従軍慰安婦」たちのことを思いだしたことを、けふ、また思いだした。1990年代前半、真冬のソウルやテグ。3人の老婦人としばらくつきあった。あの経験がなかったら、わたしはいまのように「従軍慰安婦」にかんする発言につよく憤ってはいなかったにちがいない。わたしはかのじょたちにいまでも感謝している。戦争はどれも汚い。日本の戦争にはとくに、独特の穢さ、醜さがある。潔くない。戦争が終わっても、まったくケジメがない。けちくさい。人間を人間ともおもっていない。天皇制にゆらいするものが、そこここにある(布施辰治もその点はあまかった)。相当に卑劣である。兵士がみな汚いのではない。政府である。政府は戦前も戦中も戦後も、徹頭徹尾、卑怯で汚い。人間の「からだ」というものをどこまでも無視している。バカにしている。権力もマスコミも、人間のからだと記憶への関心が、おどろくほどうすい。雪。悪いものが、しきりに兆している。もっともっと悪くなるだろう。エベレストにのぼらなかった。(2014/02/14)

鉄路のなかの自己位置確定装置.JPG

・たぶん、上りの奥羽本線の列車のなかから、写真つきのメールがきた。写真は、車内から撮ったのであろう、雪をかぶった2本の黒いレールだけであった。だが、降りしきる雪のなかでこれが撮られたとばかりおもいこみ、ドキドキした。ひとつとせ。メールの主は自殺をかんがえたか、かんがえ終えたか、まだかんがえているのだろう。生きてください。と言うのは10分の1ほどそらぞらしい。どうぞ、おやんなさいよ。そう言うのも、チラリと誘惑にかられるけれども、ま、言わずに呑みこむ。ふたつとせ。どのみちいつかやるのではないか。エベレストにのぼることができなかった。(2014/02/15)

青いプラットフォーム.JPG

・みっつとせ。〈この世は、それでも、生きる価値がある〉と言ってやってくださいよ。そんな意味のことを過日(ま、やんわりとですがね)求められたことがある。なんか、すこしむっとしたが黙っていた。よっつとせ。どこのだれにそんなことを言う資格がありますかいな。言ったことはまだないけれども、もし言うとしたら、(聞こえるか聞こえないかの小声でね)どっちにせよ、うまくいくといいね…、だ。けふ、ダフネに行く途中、雪道で転んだ。3分間、ふてくされ、あおむいて空をみていた。長靴をはいた若い女性が雪をこいで近づいてきて「手伝いましょうか?」と手を差しのべてくる。マリア様。右手ではなく、左手を。おっ、知ってるのか。小さい手につかまる。1回失敗、尻もち。2度目に成功。どうもどうも、ありがとうございます。いえ、いいんですよ、いいんですよ。いつつとせ。だから〈この世は、それでも、生きる価値がある〉んじゃないよ。生きる価値も死ぬ価値も、なんだかわからないから、むっつとせ、ダフネにむかう。雪の進軍。15分かかりました。足、びしょ濡れ。ダフネ休み。ナポリタン食えず。おもいだす。声。手伝いましょうか?死ぬのを。ミスドの気分でなく、雪道風ヨイヨイあるきで床屋へ。散髪&シャンプー。気分晴れず。エベレストはけふも回避。ななつとせ。(2014/02/16)



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2014年02月05日

復刻


◎『反逆する風景』復刻決まる

絶版となっていた辺見庸著『反逆する風景』が、ことしはじめに誕生したばかりの
出版社「鉄筆」社によって復刻され、年内に刊行されることになりました。

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2014年01月23日

日録5


私事片々
2014/01/26〜2014/02/07


2014年1月26日にオンブルヴェールの窓から見た雨の2.JPG
Photography by M.Kobitto

・籾井勝人という男の、いわゆる「従軍慰安婦」問題発言にからみ、もっとも悲しむべき、そして衝撃的でもあったシーンは、籾井の発言内容以上に、NHKおよびいくつかのマスメディアが、これを知っていながらまったく報じなかったという「空白」にあることは、あらゆる見地から疑いを入れない。これは「ブラックアウト」(blackout=報道管制、放送中止)にまったく等しい。また、「NHK受信料は支払わなくてもよい」という思想をNHKみずからが正当化したのとおなじことである。発言が取り消されたから報じなかったというのでは、小学生の理屈にもおよばず、もうまともな報道機関とはいえない。メディアの病巣の拡大と転移・再転移、病症の深まりは、生体細胞ぜんたいの静やかな石化のプロセスに似る。あるいは石淋だらけのからだ。この社会はいま、生きかつ微笑みながら、緩慢に死につつある。巨大メディアの「安倍機関化」がすすんでいる。日刊安倍新聞、安倍放送局、安倍チャンネルがさかんに自己増殖中だ。毎日が画時代的シーンに満ちあふれている。なんという壮大な反動だろう!なんということだ、と叫びたい衝動にかられるのは、だが、状況そのものに理由があるというより、怒る神経と血管が目詰まりし、ついに石化してしまった人間たちが社会の絶対的マジョリティになっており、かつてよりますます「個人」がいなくなった、個人が絶滅しかかっているからだ。「かつては歴史から学ばぬ者は歴史を再体験しなくてはならなかった。しかしそれは、権力の座にある者たちが、歴史は生起しなかった、あるいは自分たちの目的にもっともかなう形でしか生起しなかったのだ、と自分たちを含む全員を納得させてしまう手段を発見する前までのことである。いや、権力者にとってもっともよいのは、1時間の娯楽のために急造された質の悪いドキュメンタリー番組を除けば、歴史など何の意味もないのだ、と万人を納得させることだろう」(高橋和久・訳)。トマス・ピンチョンが『1984年』の解説としてしたためた文章は、まるで、2014年の日本のために書いたようである。安倍らゴロツキたちは、いままさに「歴史になどなんの意味もないのだ」と身をもって‘証明'しつつある。安倍ゴロツキ集団を倒すにはいましばらくの時間がかかるだろう。しかし、籾井という反社会的人物をすぐにでもNHK会長職から引きずりおろせないようでは、憲法改悪を阻止するのはとうてい無理というものだ。けふはコビト、犬とLSV経由、オンブル・ヴェールに行った。にわか雨を店内からみた。エベレストにはのぼらなかった。『塀の中のジュリアス・シーザー』をみた。(2014/01/26)
北里病院にいった日に撮った電車のつり革.JPG

・エベレストにのぼった。(2014/01/27)
2014年1月28日に乗った電車のつり革.JPG

・電車ー病院ー電車ーFLGW駅ーマルホランドDR.ーエベレストー登頂成功。(2014/01/28)
2014年1月28日に見た赤い自動販売機.JPG

世界に誇るわが国の安倍首相は28日の衆院代表質問で、「立憲主義と平和主義を軽んじ、格差と貧困を放置する人が、私をふくめてこの場に存在するわけがない」と、立憲主義と平和主義を土足で平気でふみにじり、格差と貧困を拡大してへともおもわぬゴロツキ議員どもにむかって演説した。これは梅毒第3期にみられる症状に酷似する。主として神経系がおかされた状態で、神経梅毒、脳梅ともいうらしい。安倍のような男を、米語ではディップシット(dipshit)と呼んだりする。意味は【名】〈米俗・卑〉ばか者、愚か者、あほ、どあほ、あほんだら、間抜け、じぶんを利口と錯覚しているばか【形】〈米俗・卑〉ばかな、愚かな、頭の弱い、間抜けな、くそったれの、能なしの、エテ公にも劣る…である。日本のマスコミも同上。政、官、民に蔓延する第三期症状。ゾッとする。籾井のデタラメ発言で怒り心頭に発した友人が「空しさをこらえ」NHKに電話で抗議した。空しさをこらえにこらえて、ひとり声をはっすることが、いまいかにむずかしいか。むずかしいがゆえに、いかに大事か。安倍はこうも言った。「新会長をはじめNHK職員のみなさんは、いかなる政治的な圧力にも屈することなく中立、公平な放送をつづけてほしい」。愚弄を愚弄ともおもっていないらしい。これがブラックジョークでなければ、やはり第3期症状である。おそらくこの国はファシズム第3期に入った。空しさをこらえ、声を荒げることもやむをえない。▼けふ、歯医者に行った。歯痛なおらず。帰り、エベレストにのぼった。▼きのふ、ホテルのソファに座っていたら、じぶんの右腰のあたりに、棒のようなひょろ長いものが1本あり、怖気だった。よくみると、なんとわたしの右手だった。うちのめされる。(2014/01/29)
2014年1月に見て撮影した鉄のような樹影の.JPG

・けふもエベレストにのぼった。歯痛か歯肉炎かがつづいている。歯医者はよくわからないという。わたすぃもわからないのだ。痛くて、原因がわからないからきたのに、この態度だ。レントゲン撮りましょうね。撮った。見ろという。モヤッとした夜更けのドブのような、はっきりしないものが映っている。これがおれの歯か。口か。感嘆。いろんなもんを噛みしゃぶり食ってきた口腔であるのであるのだよなぁ。自称医者は、どうもわからなひという。おまえがニセ歯医者か本物かを問題にしているのではなひ。そんなもん、かんしんなひ。痛みがとれるかどうかがすぃりたいのだが…と口ごもる。自称歯医者はムッとしたのか、一国の総理大臣をつかまえて「ノーバイ」呼ばわりは、あんさん、いくらなんでもあきまへんな…と呟きつつ首をふりふり、ハメマラ、ハマメラ、ハメラマラ…と、なにやら低く唱えてから、ロキソニンと口内炎の薬を処方する。やっぱりわたひにふくむところがあったのだ。なんてこった、ここまで手がまわっているなんて。にしたって、ロキソニンと口内炎の薬を処方するくらいアホでもできるやないけ。しかたがなひ。駅まへのコーコツ薬局へ。すると、耳鼻科とまちがえて入ってきたらしいジイさんが、ここは薬局で飯村耳鼻咽喉科はあっち、と説明されている。そのうちジイさんの行きたいところがじつは飯村耳鼻咽喉科ではなく、どうも自宅らしいということになり、中年の女性薬局員がジイさんの意向を最初からていねいに聞きなおしている。その笑顔、その忍耐力、わざとらしさを99.99パーセント隠した誠実このうえないボケ対応!わたくすぃ、感動し、なにか自己反省のやうな気持ちが胸にわくのだが、いや、なんだかそれもちがうぜ、セニョール、とおもったとき、ジイさん自動ドアからでていく。ジイさん、ぅわたひとすれちがいざま、だみ声で「オクニヲネ、アイシナサイヨ…」みたいなことを耳うちするではないか。ワニのよふに腥い口臭。やっぱりさうか。さうなのだ。総理大事からNHK会長まで、ヤブ医者からボケ老人まで、満遍なくこうなってしもうたのだ。ぅわたくすぃは鉛の玉をのみこんだやうなおもひで「は、はひっ!」とまちがへて反射してしまひ、だが、すぐにおもひなおしてジジイを追いかけ「ボケ、クソして寝ろ!」と公式に答弁したら、ジイさん「イイムラジビインコウカ…どこ?」と、そらっとぼける。負けだ。負けです。I am a complete dipshit.ロキソニンと口内炎の薬をもって西口のミスドへ。肉ソバ、カスタードクリームパン、コーヒーをたのむ。店員がはじけるやうな笑顔でハキハキ返事する。ワタヒハ、ミギテガワルヒノデ…ぜんぶを言いおわらぬうちに、「お席までおもちしますね、おっちゃん」と期待どおりのレスポンス。「オリンピック・パラリンピック」的自動叙述式偽善教育。クソ安い時給。クソッタレ・オリパラ・コンプライアンス。コンプライアンス室だとよ。店員になにも罪はなひ。「労働者はかれが富をより多く生産すればするほど、かれの生産力の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますますかれはより安価な商品となる」。復唱。「労働者はかれが富をより多く生産すればするほど、かれの生産力の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多くつくればつくるほど、それだけますますかれはより安価な商品となる」。プロールしかり。ヨミウリ、サンケー、NHK。戦争は平和。自由は屈従。無知は力。正義は2枚舌。政府はゴロツキ、連合ウソツキ・裏切り者。オリンピック・パラリンピック・NHK。むこうの席から民生委員こと愛情省の特別監視工作員オオタニさんがわたすぃをチラチラみてウインクしている。どうじに膝をパッカーンとひらいて勝負パンツをみせやうとひている。ババア、みたかねえんだよ。意味がわかんねえんだよ。ヤブ医者のレントゲン写真とおんなじだ。いったい、なにをやりたいんだよ?意味不明。未来皆目不明。LSVに行く。雨が降ってくる。豚のように太ったポメラニアンがよたよたあるいてくる。わたひ、じっとブタポメをみつめる。飼い主がわたひに問ふ。「なにか、もんだひなど、ございまひて?」。ぅわたすぃ答ふ。「いいへ、なんも、もんだひござりまへん。サイコーです!」。うう、歯がいてえ。(2014/01/30)
sazanka.JPG

・籾井某のNHK(ニッポン・ハズカシ・キョウカイ)やナベツネの私物ヨミウリ、ウルトラ極右サンケーなどによると、天皇、皇后が皇居・宮内庁病院や東大病院でうけた定例の健康診断の結果、とくに異常はみとめられず「おおむねお健やかな状態」であることが明らかになった。いやさか、いやさか、いやさかさっさ。これ、すかすぃ、どこがニュースなんだろ?老いたる貧しき民草の多くは「おおむねクタバリそうな状態」なんだぞ。孤独死、餓死、老老介護のすえの悲痛きわまる無理心中を知らんのか。さらにまた、天皇、皇后は昨年式年遷宮がおこなわれた伊勢神宮参拝のため、3月下旬に三重県を訪問するとか。参拝は(税金を費やすも、なぜか)「私的」なもので、皇位とともに伝わる「三種の神器」のうち、剣璽(剣とまがたま)がいっしょに運ばれ、天皇、皇后は、もう一つの神器、八咫鏡(やたのかがみ)をご神体とする伊勢神宮の内宮と外宮を拝礼するんだとさ。どどど、どぼじで、どぼじで、どぼじでなの?天皇じしんが、どぼじでも、やりたいのじゃなくて、政権が強いてやらせているのだろう。剣璽が皇居の外にでるのは、前回の式年遷宮後の参拝以来20年ぶりだって。剣璽は戦前まで、天皇が1泊以上の旅行をするときに必ず携行したが、敗戦翌年の1946年に、主として警備上の理由からとりやめたのだ。おい、居直りヤクザ籾井よ、ナベツネよ、あんときゃ、昭和天皇の戦争責任を問う声、天皇制反対の声が少なくなかったから、とてもじゃないが、ヤバくてやれんかったのだ、となぜ事実を報道せんのか。つまり、日本はいま、「新しい戦前」にもどりましたってことだ。秘密保護法OKの籾井、元日本共産党東大細胞にして完全右転向のナベツネよ、答えろ。▼昨夜、テレビでたまたま国亡大臣・小野寺の顔をみた。なんたる凶相!昏い目と涙袋のあたりにグチャグチャと錯綜する皺の、いわく言いがたい剣呑、狭量、小物ぶり。ひらたく申し述べれば、相手かまわず、ところかまわず、ひとりで勝手にイッちゃってる、テンパっちゃてる、意味のわかんない顔。気分はセンソー。トツゲキー!こいつらに未来をたくすわけにはいかない。▼エベレストにのぼった。犬はいやがってのぼらなかった。犬はエベレストを嫌っている。なにかがエベレストに埋まっているからかもしれない。ダフネに行く。ナポリタンたのむ。歯痛なおらず。ナポリタンをあらかた噛まずに呑む。(2014/01/31)
2014年1月下旬にLSVで撮った石の樹肌.JPG

とくになし。エベレストにはのぼった。(2014/02/01)

とくになひです。エベレストにのぼった。歯と口が痛ひ。(2014/02/02)

・とくにございません。エベレストに2度のぼった。NHKの経営委員会って、どのような手続きで、いったいだれが決めたのか。きわめて悪質、病的。かれらはわれわれをなんら代表しない。開いた口がふさがらない。ひとびとの力で今後これを解体できないようでは、憲法9条を保持するなどとうてい困難だ。9条はひとりびとり、からだをはってまもり、実践しなければならない。(2014/02/03)

・4月26日の講演ポスターをブログでアップした。かったるくても、しんどくても、こっぱずかしくても、やらざるをえない。やらざるをえないのだ。安倍は衆院予算委員会で、憲法96条を「改正すべきだとおもっている」と明言し、国会議員による発議の要件を現在の3分の2以上から過半数にゆるめることにあらためてつよい意欲をみせた。安倍一派は予想どおりのコースを爆走している。いよいよである。96条改定を許してはならない。そのために、ひとりがせめてひと声でもあげなければならない。歯と口が痛ひ。犬だけがつとめて明るく暮らしている。ときどき呆れたように、まるで赤の他人でも見るように、わたすぃを黙って冷たく眺めていたりする。素直なふりをしていて、一瞬、狡そうな目になるときもある。いまは疲れた老女の顔をして、コビトがくるのをじっと待っている。雨、みぞれ、吹雪。エベレストにはのぼらないだろう。(2014/02/04)
2014年2月4日にエベレスト近くで溶けのこった雪.JPG

・エベレストにのぼった。溶けのこった雪があった。ヤマモミジの枝が眼鏡のフレームの内側に入ってこようとする。ほんとうにしつこい。ダフネに行く。ビールマンスピンのマキちゃんにナポリタンをたのむ。コーヒーが値上がりしたという。先客もナポリタンをすすっていた。口で食っているのではなく、もっぱら鼻ですすりあげている。マキちゃんによると、いつもああやって食うというか、鼻ですすっているのだという。片方だけでなく両方の鼻の穴でナポリタンを吸いあげている。座高のえらい高い男。身長185センチはあるだらう。首から聴診器をぶらさげている。聴診器や鼻からたれた2本のパスタのために、顔が管だらけにみえる。くわえて、鼻にどんどん吸いあげられてゆくピーマン、ベーコン、タマネギ。鼻すすり食い。男はそうしながら、下半身をおろそかにしているわけではなく、はげしく貧乏ゆすりをしている。ナポリタンのためにつかわれていない口はブツブツとなにごとかつぶやいている。やつは医者なのかと問うと、マキちゃんは「しんなーい」といかにも興味なさげに言いすてて、イナバウアーをしながらカウンターにもどっていった。(2014/02/05)

ノアールの壺について.JPG

・安倍一派がやりたい放題をしはじめている。アラート!かれらは憲法など歯牙にもかけていない。戦後政治史上、例を見ない最悪の事態がきた。各人、どんなに微力でも、各人の方法で、この反動に立ち向かわなければならない。わたしはわたしにできることをする。この夏に宮城県で講演することを、からだがもつかどうかわからないけれども、昨夜OKした。4.26のつぎは8.2だ。(2014/02/06)

2014 年2月6日に撮った足下のシグナル.JPG

・藤崎孝敏の描く裸婦をみていると、荒れた心がしずまる。裸婦でなくてもいい。静物でも街でも橋でもよい。すべては夜更けである。すべては剥きだされて、闇にとっぷりと沈んでいる。「ピガールの裸婦」。肩口が宵に融けている。いつも手もとに置く。今日も開いた。3軒目の歯科医院。やっとまともそうな医師。説明をはじめて納得できた。コビト、犬とミスドにいく。男たち3、4人がわたしをジロジロ見ていた、おかしい、とコビトが言う。近ごろはみんなぺろりとした顔をしているので、だれが公安かだれがウヨクかだれがニューハーフか、わたしには見わけがつかない。昔は公安は公安の顔をしていたものだが。エベレストにのぼるのを忘れた。(2014/02/06)

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・「賃労働制度とはひとつの奴隷制度であり、しかも労働者の受ける支払いがよいかわるいかにかかわりなく、労働の社会的生産諸力の発展につれて、ますます過酷なものになってゆく奴隷制度であるということ、これである」。ダフネにいく。ナポリタンをたのむ。両の耳の穴からパスタをぶらさげている客がいた。なぜ耳の穴からナポリタンの麺をぶらさげているのか。どぼじでか。マキちゃんに問うた。マキちゃんはビールマンスピンをしながら、「しんない…」と言った。マキちゃんの時給は780円である。エベレストにのぼった。オババの姿が見えないという。陸橋のたもとにあった所持品もすべて消えているらしい。オババは避寒のため移動しただけか、ほんとうに消えたのか。(2014/02/07)



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2014年01月19日

日録4



私事片々
2014/01/19〜2014/01/25

2014年1月17日に撮った電車のつり革.JPG


・ずっと待っていた。よいにつけわるいにつけ、もっとも大切なことは、これからはじまる。言い方をかえれば、もっとも大事なこと、または、最大の恐怖も、まだ訪れてはいない。だからなんとはなしに待っている。これまでもずっと待っていた。生まれてからいままで、一貫してずっとそうであった。なにかを、忍びながら待つ気組み――が、からだにそなわってしまっている。目で待つ。耳でさぐる。骨でかんじようとする。血がなにかに呼ばれようとして、じっと待つ。だが、もっとも肝心なことは、まだ起きてはいない。まだそこまではいってはいない。そうおもう。そうおもうことで、じぶんと手を打ってきたのだろうか。おどろくべきことも、たしかに、9.11や2011年3月11日や、いろいろあった。腰を抜かすほどのできごとも、ずいぶん見聞きし、目をうたがう修羅場にもいたことがある。しかし、だからどうしたというのだ。じぶんの存在が根こそぎうばわれたり、これこそが至上の慶事、ついにさぐりあてた真理、見たこともない美、最高の艶冶とは、ついぞおもったことがない。これこそ最悪の凶事、ひととして最低の堕落とはまさにこれだ…とかんじたことは、いくたびかあった。そうしたことがじじつあり、あったようでいて、つきつめると、なぜか確信はない。むしろ、これ以上の悪、これ以上の禍が、きっとあるにちがいないと予感してきて、じじつ、ほとんどが予感のとおりになってはいる。死の道をあゆむ者は、樹下のあの葡萄色の影へと、次から次へと例外なく消えていった。わたしもやがてそうなるだろう。だが、そうだ、これだ、これがどんづまりなのだ、これが終焉なのだ、と心底、感得したことはない。おそらく、そう感得する能力がなかったのだろう。したがって、ふたたび待つ。なんとなく待ってしまう。いまここにこうしてあるのは、まちがいかもしれないが、なに、その気になりさえすれば、いつか脱出できるだろう。誤りはじぶんがたださなくても、だれかがやってくれるかもしれない。で、待つともなく待つ。待つともなく待つようなそぶりで、そのじつ、なんだかいじましく生きている。ときに、満を持していると錯覚したりもする。えっ、満を持するだって? ばかげたことには、そうした気分になっていたりする。ちがう。まったくちがうのだ。おもうに、じつのところ、わたしは死以外のなにも待ってさえいない。72億人の怠惰な不作為者のひとりとして、いま、ここに、ただあるのみである。カタストロフィも口では言えぬほどの堕落も凶事も、あるとするなら、これからではなく、いまある。いま起きているはずだ。犬とLSVにいく。キジバトを見た。犬をバッグに入れてカフェに入る。犬はいちども鳴かなかった。わたしはもうなにも待ってはいない。けふもエベレストにのぼらなかった。明日は、できれば、エベレストにのぼりたいとおもう。(2014/01/19)
2014年1月17日にプラットフォームで撮った褪せたユリの花.JPG

・政治とは、ほとんどのばあい、税金を蕩尽するプロのゴロツキたちの狂宴(オージー)なのであり、詮ずるに 、左右のどのような政治にも、個人として受容しうるものなどなにもない。にもかかわらず、政治とそれによりもたらされる出来事に、ひとりの人間がなんらかのかかわりをもたざるをえなくなるのは、なにも〈民主主義〉のためではなく、身体的についに堪えがたくなるからである。沖縄にたいし自民党政府のやってきたことは、組織暴力団と本質的に変わるところがない。政治の位相と生身のひとの生活の位相は、おなじ空間にあるようでいて、おなじ位相空間にはまったくない。前者は後者を負いはせず、支えもせず、ただ壊すのみである。政治と生活は、畢竟、根本から対立する。どのみちすべてはめくりかえされ、剥きだされる。言葉は日ごとにとどける意思をおびたものではなくなっており、いまよりさらにとどかなくなるだろう。いずれ暴力があらわになってくるのだろう。すでにそうなのだが、もっと言葉が暴力と近似的なものになる可能性がある。きのう、手の爪を切った。スイカズラの葉に蛍がとまった夜をおもった。(2014/01/20)
2014年1月20日に撮ったオーロラ.JPG

・20日のことだが、寝不足ながら、エベレストにのぼった。山頂にシダレヤナギの枝が散乱していた。おもった。エントロピーは系の乱雑・無秩序・不規則の度合をあらわす量だという。エントロピー増大で情報過剰となり、そうなるとかえって秩序が失われて混沌とし、混乱が拡大していくとともに、根源的なもの(生命、魂)の喪失が常態化する、ということなのだろうか。この法則では、そもそも一定不変の「根源」など存在しないことになる。エントロピーの増加量は、系が吸収した熱量を温度で割った値にひとしい――といわれるが、よくわからない。わがんね。わかるのは、言語による説明のほとんど不可能な渾沌とした領域が、外面にも内面にもひろがっていることだ。原因不明のまま、結果的現象だけが蔓延する。原因不明のまま戦争勃発、核戦争に拡大…という未来もありうる。▼ポコとぱけちゃんが昨日きて、犬が大興奮、そうなったときの症状で、彼女の目が充血する。ミコリンは自家製のアジの南蛮漬けをみやげにもってきた。先日の無礼をわびるいみもあり、民生委員のオオタニさん(日録2参照)にもおいでいただき、ぜんいんワンカップ大関で乾杯、大いにもりあがる。過去のわだかまりを一気に水に流す。オオタニさんはせまいリビングなのに、得意のバック転をなんどもきめて悦びを表現していた。みんなでLSVにくりだし、犬たちもふくめ1列にならんで、いっせいに記念の放尿。シャーッ。夕陽にかがやく、いくすじかの黄金色の放物線が、公安関係者やパパラッチに激写されたらしい。LSVで無事、流れ解散。▼帰宅後、犬と入浴。浴室の壁に、吸盤のついたつかまり棒をとりつけたら、好奇心旺盛な犬が「それはなんといふものなのですか?」と訊く。「これは中国製の転倒防止用つかまり棒といふものなのだよ」とおしえてやる。すると犬は「そうなのですか、それは中国製の転倒防止用つかまり棒といふものなのですね?」と、わたしの答えをそのままなぞり、それが疑問文になっているので、おちょくられた気にもなるじゃないですか、ちょっとイラッとするものの、けふは特別の日、いや、毎日が特別の日なのだから、とおもいなおし、おだやかに「そうなのだよ、これは中国製の転倒防止用つかまり棒といふものなのだよ」と応答。犬、浴槽で泳ぐ。犬に背中を流してもらってから肩をマッサージしてもらふ。犬「お客さーん、キモチンよかとですかあ。延長しますかあ?」と訊く。爪が痛かったので延長しなかった。▼21日はエベレストにのぼらなかった。「アプザイレン」が校了した。サクッと。(2014/01/21)
2014年1月20日の爆撃跡.JPG

・ざわざわして落ち着かない。読みさしのトマス・ピンチョンを繰ったり、書見台のブッツァーティをのぞいたり、ニュースとにらめっこしたり。「失業者、世界で2億人突破」の記事にはとくに打ちのめされた。18世紀産業革命後の一大事件として特筆されるべき世界史的なその内容もさることながら、日本の各メディアの@あまりのおどろきのなさAあつかいの小ささB視線の浅さーーに、したたかに打ちのめされた。わたしにとっては号外クラスのできごとだったのだが…。このぶんだと、戦争前夜でさえ、こいつらは他人事のようにエヘラエヘラ笑っているにちがいない。世界で貧富の差が拡大し、最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分に相当するほど悪化したという。戦慄すべき富の集中。G-W-G'の基本になにか変化が生じたとはおもわない。ただ、G-W-G'の奥に、ひととして切実な関心をもつ者がほとんどいなくなった。儲け話、サクセスストーリーばかりだ。貧者と弱者と失業者への共感と抵抗、すなわち人間への興味を失った荒野には、なにもない。この国には、政権の知能程度にみあったマスメディアしかない。ずっとそうだった。けふエベレストにのぼった。(2014/01/22)
無人電車.JPG

・4月下旬に神奈川県で講演をすることになった。まだ3か月も先のことである。はるかな未来だ。要請をうけるときに、いつも困惑することがある。いつからか「時間の連続性」を当然のこととして信じることができなくなったために、数か月も先のことについてOKと言うのがなんだか無責任におもえるからだ。時間の連続性とは、存在の連続性と言いかえてもよいのかもしれない。生きる主体、つまり、わたしという現象の継起については、せいぜいが2、3週間くらいのタームでしかイメージできない。3か月も先のことが、わたしの実存を引きつれて、疑問の余地なく、必ずやってくるとかんがえるのは、余人はいざ知らず、わたしにはどうも苦手である。2011年3月11日からそうなってしまったのかといえば、なるほど影響はしているのかもしれないが、じつのところそれ以前から、この癖はあった。では、2004年春に脳出血で倒れて以来の癖かと自問すれば、ふむふむ、それもあるかもしれないのだけれども、よくよくふりかえれば、2004年春以前から、わたしには時間の連続性へのつよい不信感があった、と正直に言わざるをえない。と、ぐだぐだかんがえているうちに、主催者から講演タイトルとメッセージを送るよう催促があった。本日締め切り。「なにかが起きている――足下の流砂について」を表題とすることにした。ブッツァーティの「なにかが起こった」のもじり。メッセージとともに連絡した。にしても、3か月先は遠い。なにが起きるか、世界がまだ在るのか、わかったものではない。まず死刑の執行。いまの政権の姿勢からみて、ぜったいにいやでも、「あり」の公算が大ではないか。そうなれば、内心の構えがまた揺らぐだろう。死刑こそ人間の時間の連続性を断つ国家犯罪である。むこう3か月のあいだに再び入院を余儀なくされる懸念も皆無ではない。そうなったら、主催者たちに迷惑をかけることになる。これらのほかにも、自他の存在にかかわる不可測的なできごとが3か月以内になにかしら起きないはずがない。それなのに、3か月も先の講演を当然の前提に生きるというのは、どうもしっくりとしない。けふはまったく外出せず。エベレストにもダフネにもミスドにも行かなかった。(2014/01/23)
2014年1月24日に見た鉄の連鎖.JPG

・けふエベレストにのぼった。ヤマモミジの枝が顔をさえぎると、たちまち足がみだれる。つんのめる。エベレストの勾配よりも、ヤマモミジやシダレヤナギの枝のほうが明らかに難敵である。ダフネに行った。ダフネと言えば、ナポリタン。ピーマン、カイチュウ、サナダムシ。ずるずるすすっていたら、とても顔の大きな女性が入ってきた。茶のコートにロングブーツ。だが、コートもブーツもすぐに忘れる。顔に圧倒されたからだろう。ダフネに「顔」が入ってきた、とわたしはおもったのだ。とても顔の大きな女性はとても顔の小さな女性より、なんというか、ハッとさせるものがある。同居中の犬はとても顔が小さい。ハッとしない。目がわるいので、顔をよせていかないと犬の表情がよくわからない。もう少し顔が大きくてもよいのじゃないかとおもう。そこへいくってえと、顔の大きなひとは、入場シーンからしてその存在に目をひかれる。造作ぜんたいが、なんかゴージャスな感じがする。なぜだろうか。モリヤマカヨコというひとも顔が小さくはなかった。チンタレーラリルーラ、お屋根のてぺんでえ…。野球の本塁ベースみたいな顔。チンチンチンとおーつきさ-ま…。嫌いではなかった。でも、モリヤマカヨコの顔はもっと大きくてもよかった。チンタレーラリルーラ…お屋根のてぺんでえ、恋をするのーよ…。モリヤマカヨコの顔はもっともっと大きくてもよかった。もっとインパクト。もっと破壊力。もっと爆発力。それしかない。畳一畳ぶんくらい。もっと起爆力。マッジョーレ!わたしはそうおもっていた。あっ、顔大ブーツのひとがトイレに入った。おひっこか。でてきた。なんだ、小排泄のみ。おや、顔大ブーツ女もナポリタンを食いはじめる。ズルズルズルズル、サナダムシ。わたしとシンクロする。ズルズルズルズル、サナダムシ。ピーマン、タマネギ、サナダムシ。ベーコン、ピーマン、ナポリタン。わたしのパスタと顔大女性のパスタがつながっている。ずるずるずるずるナポリタン。チンタレーラリルーラ…。夜、歯をみがいていたら、テレビからまたフジワラキイツが飛びでてくる。唇が妙に赤くてキモい。脳天唐竹割りをおみまいしたら、かんたんに気絶した。就寝まへ、コビトから電話。「また下品なブログね。身体的特徴をあれこれ言ふのってサイテー。ダフネさんにもガンダイさんにもモリヤマさんにもキイッつぁんにもマジ失礼でしょ。講演主催者さんかてお困りよ。みなさんにお詫びしなさいよ!土下座さらさんかい、われぇ!」。そっか。キイツ以外の方々には、ほな、謝罪することとする。キイツは今度でてきたら、岩石落としだぜよ。(2014/01/24)
2014年1月24日にダフネへの路上で見た謎の物質.JPG

・きのふのこと。ダフネに行く途中、路上で謎の物質(写真)を見た。隕石か、樹の苔か、だれかが故意に放置した放射性物質か、これは高く売れるか。いずれにせよあまり関心がもてず、消防にも警察に質屋にも連絡せず、その場をパスした。そのとき、わたひは、ビットコインも貨幣ないし資本なのかどうか、くゎんがへながらあるいていたのであった。 “To recap, it's is a purely online currency with no intrinsic value; its worth is based solely on the willingness of holders and merchants to accept it in trade.”というのが、面白いといえば面白い。intrinsic value(本源的価値)といったって、そんなもん、ビットコインにかぎらず、ドルにも円にも、なににもないっちゃ、ないんだから。本源的価値がないのは、価値じたいが「所有者の意思にのみにもとづく」からというのも、なにやら現代哲学じみて空々しくアイロニカルじゃないとですか。すかすぃだ、剰余価値を生むことで自己増殖する価値運動体として資本を定義するなら、ビットコインだって資本である。てか、国籍不明のビットコインこそ、資本(に憑依する人間)の妖怪じみた本質=倒錯を表象する。いまといふ時間は、資本の運動のみが異様に活発である。資本の運動はアナーキーである。それにともない、旧来の価値や共同幻想や「国家」は融けてきている。情報をふくむ資本の運動により目下、溶解させられているからこそ、それへの反動として、いま各所で国家主義、復古主義が息をふきかえしているのかもしれない。しかしG―W―G'は、国権のいかんによらず変わらない。そして「事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値の低下がひどくなる」は、まことに予言のとおりだ。人間世界の価値の低下は日々ますますひどいことになっている。人間はカスだ。♂カスor♀カスである。ゼンメン・ムナイヨー男キイツよ、どや、そなひおもわへんか?なにトーダイではそないなガクセツないて?ええわ、きさんタマないんやったら、そのヒョロヒョロした首洗ろて待っとけ、アホ。岩石落としかけたるで、楽しみにしいや。けふはエベレストにのぼらなかった。ダフネにもマックにもミスドにも行かなかった。(2014/01/25)


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2014年01月14日

日録3



私事片々
2014/01/12〜2014/01/18

ただ一度だけ息をするためだけに.JPG

・エベレストにのぼったか、のぼらなかったか、外出したか、しなかったか、憶えていない。視力がずいぶん落ちている。かすむ。ロキソニンのむ。(2014/01/12)
LSVで見たヤマバト.JPG

・エベレストにのぼらなかった。犬をバッグにいれてミスドに行った。コーヒー、担々麺。食べているうちにまた歯痛。コロボックルがきて、犬がとてもよろこんだ。LSVをすこしだけあるく。ヤマバトをみた。『アンドレイ・ルブリョフ』前半部分をみた。映像すばらしいが、目がかすむ。コロポックルにディーノ・ブッツァーティのことを教わる。(2014/01/13)
1月15日に撮ったボケの花.JPG

・エベレストにのぼらなかった。風邪、歯痛、かすみ目、気うつ。昨夜もロキソニン、フロモックス、PL顆粒、デパス、レンドルミン、降圧剤、プレタール、ムコスタなどバクバクのむ。コロポックルとフロモックスの名前混同す。ひどいかすみ目で「なにかが起こった」を読む。かるい興奮。物語の条件をすべて満たしている。つまり、世界とひとびとの、なにか暗ぐらとしたリアリティ(完璧な不条理)を、からまりあった古い鉄筋のように埋めこんでいる。驀進する列車にはいつも、〈われわれは目的にむかって逆走する〉という、ひとすじの普遍性がある。ファシズムなどという言葉をわざわざつかわなくても、われわれはファシストなのである。いやおうなくからめとられる。終着駅に着いて、北ゆきの超特急列車から降りたならば、「いまはもう、なにもかもが同じことだった。彼と墓のあいだを隔てるのは彼自身の死だけであった。すべてを諦めた彼は理性を備えた動物たちが住む、不条理で誤りに満ちた向こう側の世界から聞こえてくる、規則正しく打ちつける大粒の雨音を聞いていた」という、ありえぬことことになりかねない。もはや「主体」はなにとでも入れ替え可能な「没主体」にすぎない。これは文学ではない。現実である。いまはもう、なにもかもが同じことだ。(2014/01/14)
1月15日に見たカラスの巣.JPG

・エベレストにのぼった。懐かしいとはおもわなかった。懐かしいとおもう感情に10年ほどまえからダメージを負っているらしい。じぶんにもエベレストにも、むろん、詫びる気にはなれなかった。エベレストにくる途中、冬枯れた立ち木にカラスの巣をみた。コビトによると、あれはいまつかわれていない巣なのだという。雛が巣立った使用ずみの空き家みたいなもので、またつかわれることはあるまい。産卵するカラスはオスのパートナーとともに新しい巣をつくるだろう。昨夏、わたしを襲ったカラスはおそらくあの巣を作った母ガラスにちがいない。と、れいによって早口になって、知ったかぶりをする。コロボックルは嘘つきである。それは当方とてそうでなくもないのでとやかく文句は言えない。コビトは、興奮すると、録音テープの早送りみたいに、ほとんど聞きとれないほど早口になる。ピキピキピキピキ…。母ガラスは、「脅威」と認識したら、巣を中心に半径20〜100メートルの範囲では、攻撃してくる、あなたは「敵」とみなされたのだ、という。コビトは、わたしが「悪意の増幅」という面で、認知症患者のある種のパターンに似てきていると言う。そうなのだろうか。そうなのかもしれぬ。懐かしいとおもう感情に障害があるとすれば、わたしは時間感覚になんらかのダメージを負ったからだ、とは言えまいか。喪失を悲しみとしなくなることも、時間感覚を障害されているからではないだろうか。しかし、「なにかが起こった」に、わたしは揺すぶられた。列車。列車と逆方向に逃げてゆくひとの群れ。「この呪わしい列車は時計のようにきちょうめんに、敗走する味方の流れに抗してすでに敵が露営している自分の塹壕に戻ろうとする正直な兵士のように、進んでいくのだった」。「そしてその端然とした態度に、あわれな人間が抱く尊敬の念のために、われわれの誰ひとりとしてあえてさからえないのだった」(脇功・訳)。この風景に悲しみをかんじる。この風景に悲しみをかんじることができる。コロポックルとわたしは、いっけん趣味があう。だが、ほんとうにそうなのか。言葉と身ぶり。両者のかんけい。そのありようが、あたりまえではあるが、ちがうとおもう。言葉は身ぶりを誘う。言葉はかつて身ぶりを誘ったものだ。身ぶりは言葉に誘われる。ときとして誘われたものだ。コロポックルだけではない。みんながそうだ。言葉と挙措は、かんけいが依然あるものの、撓むか途切れるかしていて、もはや一対のものではない。それでよい。が、言葉と身ぶりのかんけいが、こうまで撓むか途切れるか反転しているかしていることを、もうすこし悲しんだり、うろたえたりしてもよかりそうなものではないか。政府が特定秘密保護法の運用について“有識者”から意見を聞くための「情報保全諮問会議」のメンバーを発表し、座長に渡辺恒雄が就任することになったという。こうしたおぞましい情報を浴びれば浴びるほど、怒れば怒るほど、わが身もおぞましくなっていくようにかんじられるので、ついつい耳目をふさぎ、口も噤みがちになる…ということについても昨夜コロポックルと話した。「それがやつらの付け目だね」と、わたしかコビトのどちらかがボソッとつぶやいたのだが、「やつら」とはなにか「付け目」とはなにかを吟味しはしない。そのかぎりにおいて、わたしとコロボックルだって、「なにかが起こった」の超特急列車の、もの言わぬ乗客なのだ。いまなにが起きているのかを手をあげて大声で問いもしない。列車を止めようともしない。どうすればよいのだろう。口を噤むことも、怒りくるうことも、「やつら」の存在認定(受容)にしかつながらないのだとしたら、ほんとうにどうすればよいのだろう。コビトには言わなかったが、こうなったら、ただ沈黙するのではなく、たぶん狂えばよいのだ。せめて行く先の仔細について、ひとり挙手して問うべきだ。ガルシンの「赤い花」のように戦い、なんどでも敗れればよいのだ。いまさら高踏ぶらないことだ。正気ぶらないことだ。わたしたちには、すでに、とんでもない「なにかが起こった」のである。いままさに起きているのである。そえれだけはまちがいない。列車はぜったいに行くべきでない場にむかい爆走している。〈困ったことです…〉などと言うのはもうやめたほうがいい。こうなれば、狂うしかない。なんどでも戦い、なんどでも敗れればよい。高踏ぶらないことだ。正気ぶらないことだ。言葉と身ぶり、そのかんけいに生じた〈鬆〉についてかんがえる。(2014/01/15)
1月16日に見たflgwのキジバト.JPG

・新聞記者の友人(といってもわたしの子どもほど若いひとだが)がけふ、FLGWに会いにきた。インタビューでも取材でもなく、つまり、記事化とはかんけいなく、なんとなく話しにきた。犬をつれて西口のミスドに行く。肉ソバとクリームパンとコーヒーとアップルパイを注文。犬をバッグにかくして、クリームパンの切れ端をあたえた。店員がくると犬はさっとバッグにかくれる。特定秘密保護法成立以後の記者活動に変化はあるか、訊いた。まったくない、という。秘密保護法はもう社内でまったく話題にもなっていない。文字どおり既成の事実だという。あなたはどうおもうか、とわたしは反問された。わたしは、どうもおもわないよ、いい天気だね、と言った。犬がバッグのなかでゴソゴソうごいている。なにかもっとくれというのだ。麺を3本ほどあたえた。犬はツルツルと吸いこんでから満足したらしく寝はじめた。歴史的できごとというのは、実時間ではそれと実感されがたいものだ、という意味のことをわたしは話した。いまは、のちの年表にゴッチックで記されるだろう画時代的時期だけれども、そうはかんじられていない。盧溝橋事件のころもそうだったらしい。1925 年(大正 14)の治安維持法制定のころもそうだった。実時間では命がけの反対なんかほとんどなかったらしい。とりわけマスメディアは事態を煽るか政府の片棒をかつぐばかりで、必死の抵抗などまったくなかった。治安維持法はその後、反政府・反国策的な思想や言論表現弾圧の口実として大いに利用されたけれども、メディアの側には痛苦な反省はついぞなかった。なぜなら、メディアというのはつねに生身のない「わたしたち」「われわれ」であり、切れば血がでる生身の「わたし」ではないからだ。1937年(昭和 12)7月7日の盧溝橋事件が、45年8月15日、日本の無条件降伏にいたるまでの日本と中国のきわめて長期的な戦争になる、日本がアジア各地で大殺戮をおこなう、あげく太平洋戦争にまで絶望的に拡大してゆき、東京大空襲、ヒロシマ、ナガサキの地獄を結果する…とだれが実時間に予感しえたか。だれが責任を負うたか。ぶつぶつとわたしはつぶやいた。その記者にはすでに話したことのあることばかりだった。店のそとでカラスがわめいている。市の職員だろうか、立ち木からカラスの巣をたたき落としているからだ。カラスは1匹2匹ではない。10数匹があつまって抗議している。悲嘆と怒りがおりなす、ただごとではない声だ。あちこちの黒い顔がみなひとつの方向をむいている。目と鉄のような嘴が、壊された巣と壊した男にむかっている。カラスたちにはなにかやむにやまれぬ暴力のようなもの、デスペレートな覚悟のようなものがみなぎっている。ぬきさしならないできごとが店のそとで展開している。べつの男が空のカラスにむかい棒のようなものをふりまわしている。記者が「ちょっと…」と言って立ちあがり隣のコンビニにゆき、朝日新聞を買ってきた。自動ドアがひらいたとき、「ギャー」というカラスの絶叫がじかに耳にとびこんできた。記者は社説をみてほしいという。「欠陥法の追認はするな」という見出しだった。「情報保全諮問会議」が17日に初会合を開くことにむけた社説。「議論によって(特定秘密保護)法の欠陥を根本的に改めることは難しい。それでも、秘密が限りなく広がることに一定のブレーキをかけることは重要だ。メンバーにはその役目を自覚してもらいたい」と述べ、「…政府の行き過ぎに歯止めをかけるべきだ。政府の方針を追認するだけに終わっては意味がない」という。わたしはあくびする。社説にはなんの緊迫感もなかった。記者がうすく笑った。カラスが鳴いている。社説は言う。「私たちは社説で、この法案は廃案にすべきだと主張してきた。以下の理由からだ。/本来は国民のものである情報を、首相ら『行政機関の長』の裁量によっていくらでも特定秘密に指定することができる。秘密の内容を検証する独立した機関はなく、何が秘密に指定されているのかさえわからない。指定期間は最長60年で、それを超える例外も認める。/…このまま施行されると、膨大な情報を行政府が思うがままに差配できる。それでは国民の判断を誤らせ、やがて民主主義をむしばんでゆくだろう」。またあくびをする。「やがて民主主義をむしばんでゆくだろう」だと。とっくの昔に民主主義はむしばまれているではないか。社説は「情報保全諮問会議」成立のまことにいかがわしいプロセスや、座長に、もともと秘密保護法の積極擁護論者にして改憲論者そして元インチキ共産党員にして旭日大綬章受章者・渡辺恒雄が就任した、露骨なデキレースについて一言も批判していない。読売とナベツネへの配慮、忖度、おもいやり、諂いがれきぜんとしている。廃案にすべきだと言いつつ、そのじつ、秘密保護法を追認しているのがほかならぬこの朝日社説ではないか。これがこの新聞(とそれに代表される世論の)どこまでも卑劣で空しいロジックだ。「私たちは社説で、この法案は廃案にすべきだと主張してきた」という、その「私たち」とはいったいだれなのだ。ひとりびとり名を名のらなければならない。「私たち」とは何者かを証さなければならない。主体の所在と生の声を列記すべきだ。ぬけぬけと「この法案は廃案にすべきだと主張してきた」というのなら、なぜ毎日、一面でその旨を倦まずたゆまず主張しないのか。なぜ全社および系列各社あげて秘密保護法廃案にむけて生身で行動しないのか。わたしは記者になにも言わなかった。記者はつぶやいた。「ほんとうはですね、なにもないのです。ルーティンワークだけ。なんにもない。それが真犯人だとおもいます…」。わたしはメディアによってたえずつくられている「リミナル(liminal)な時空間」ということをボンヤリとかんがえていた。閾値とはなにかを。そこにいつの間にか、当然のように形づくられてゆく集団的記憶。抗えない集団的記憶。戦争は可能である。戦争はいつかほんとうに可能になる。リアルになる。気がついたとき、おびただしい血が流れているだろう。カラスがまだ鳴いている。犬が寝ている。エベレストにのぼらなかった。(2014/01/16)
2014年1月17日に撮った路面の花.JPG

・電車にのって眼科へいく。凍えた無人の街。ファドが低くながれている。「暗いステージの上で/パラ―ラが/死と/会話している。/彼女は死を呼ぶ、/死はこない、/そこで 人びとが死をもう一度呼んでみる…」。黒衣の、気のふれた女(死者)に散瞳薬を点眼される。「おまはん、サンドウヤクをテンガンするぜよ…」。光が爆発する。燦爛たる光のドームが死界とつながる。熱帯魚が開いた瞳孔を往き来する。カラシン、ティスカス、アナバス、コリドラスたちが、黄金の光とともに。「やめでけろ。やめでけれ。やめでけさい。やめでけんちょ!」。わたしは懇願する。街にはクリスマスのイルミネーション、夜空には曳光弾、駅には硝煙、瓦礫。左右の目に真っ赤なオレンジドワーフグラミーを1尾ずつはさんで、ゾンビあるきであるく。死者の腹を踏んで。オレンジドワーフグラミーは性格穏和で、カラシン君やひいちゃんたちとなかよく混泳できるので、もんだひないひです、とじぶんに言いきかせて、ゾンビあるきして電車にのる。死者たちで満員。生きているのは狂人だけ。わたひ、車内のみなさまとすぐに同期しちゃう。目のなかで熱帯魚があばれる。なにが性格穏和なもんか。赤い尻尾がペタペタと目からとびてて、かっこうわるひ。目えが、えろ魚くさい。といふわけで、エベレストにのぼらなかった。(2014/01/17)
2014年1月17日に瞳孔散瞳後に撮った熱帯魚.JPG

・きのふ、散瞳薬を点眼されて瞳孔の散大を待つあいだに病院の食堂で食べたホットサンドウィッチがものすごくうまかった。パンも卵もあたたかで、ああ、おいしいなあ、なんて贅沢なのだらうとおもった。わたすぃ、はからずも、特段の用もなくここまで生きてきて、ホットサンドウィッチを食べたのは、じつにはじめての気がするのだす。わたひは薬物によって目の副交感神経の作用を、たぶん、末端で遮断されるかなにかしていた。瞳孔散大(対光反射消失)、呼吸停止、心停止という死への3大要素のうち、瞳孔散大をしながら、じぶんはこうして静かにひと皿のホットサンドウィッチを食っているのであるなあ…とおもうと、なぜかとくにおいしいとかんじた。すかすぃ、コーヒーとサラダつきで1000円はけっして安くはないので、お金のないひとには申し訳ない、というかんがえがチラリと胸をかすめたが、偽善的でもあるその申し訳なさが、ホットサンドウィッチのうまさを一気にそこなうのではなく、むしろ逆であったことが、なにかストレートに残酷なこと、この世の合理的非情さのようにもおもわれるのであり、そうしたモヤモヤを整理することもできないまま、ホットサンドウィッチは、わたしぃによりペロリと完食された。家にかえると、犬が馬のアキレス腱(Sサイズ)をまえに、前肢をそろえて伏せをして、長さ15センチほどのそれを、まるでじぶんの赤子でも見守るようにしていた。わたひが近づくと、ウーウーと攻撃的うなり声をもらし、アキレス腱をあくまでも守ろうとするので、なにか事情があるのだらうとおもひ、ほうっておいた。わたひの瞳孔はまだひらいている。手探りでリモコンにさわり、時間を知ろうとテレビをつけたら、カンサンジュンとフジワラキイチがニマニマ笑うてとびだしてきたので、前者はウェスタンラリアット、後者には、いうまでもなく反則ではあるが、金的蹴り(キンタマが1個もなひのに金的蹴りとはこれいかに。股間蹴りに訂正)をくわえて、それぞれ1発で倒した。両人とも口から泡を吹いた。瞳孔散大状態にしては、ま、上出来だった。犬はあれほど大事に見守ってきた馬のアキレス腱を、深夜になってから突如ムシャムシャとしゃぶりはじめた。けふは105円のクリームパンなどを、犬といっしょに食べるなどして、エベレストにはいかなかった。(2014/01/18)
posted by Yo Hemmi at 15:24| お知らせ | 更新情報をチェックする

日録2


私事片々
2014/01/05〜2014/01/11


股についての嘘.JPG

・風邪。けふ「インターフォンをスマホ連動式にする超大人気アプリ!3週間無料お試しキャンペーン!」てのを発見、反射的に申しこんでしまった。外出先でもベッドでも海外でも、携帯で即インターフォンに対応でき、モニター画面もバッチシ…というスグレモノ。早速セット。記念すべき第1件目の訪問客は、トイレで大排泄中にきた。ピンポーン。樹木希林似のおばさん。「新年明けましておめでとうございま―す!民生委員のオオタニと申しますが、現在のご家族構成と緊急連絡先をおしえていただきたくて参上いたしました」。わたし「ぼくと出っ歯の犬だけです。緊急連絡先ないです」。樹木「紙に記入していただきたいのですが、お部屋にお邪魔してもいいですか?」。わたし「いやだね。帰れよババア」。希林「ドボジデだめなのですか?」。わたし「クソしてるんだよ」。樹木「じゃあクソ終わるまでお待ちしますけん、お願ひしまふ」。わたし「民生とか委員とか、きらいなんだよ。帰れ、クソババア!」。樹木「オーッホッホッホ…いままさにクソ中のひとにクソと呼ばれるゆかしさよ ねびゆかむさまゆかしきひとかな…あなた、源氏よ、若紫よ」。わたし「…」。希林「念のために言うておきますけんど、ここはマルホランドDR.じゃなくて、ただしくは、マルキランドDR.よ。ブログ訂正しときなさひよ。ほな、あばよ、クソッタレ!」。▼マルキ?むかしのセンスだと、「マルキ」の意味はいくつかある。@キ×ガイA警察機動隊Bマルキ・ド・サドのMarquis(侯爵)――なんだか、懐かしい。たぶん@だろうな。それが自然だ。Bでもいいけど。サドには、なんとか娼館事件で「肛門性交の罪」その他のかどで死刑判決がくだされた。『美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の著者を捕まえるよう命じたのは、だれあらう、ナポレオン・ボナパルトだった。サドは裁判なしに投獄され、19世紀初頭にシャラントン精神病院に強制入院させれられて、死ぬまでそこでくらした。なんでそんなことを憶えているんだろう?東武東上線で「自殺」した佐藤昭憲はサド全集をみんなもっていて、わたしは借りてみんな読んだ。マルクスより夢中になったな。トイレにてアプリ即解約す。▼マルキランドDR.に、年賀状転送されてくる。にしても、もうろくジジイともうろくババアてのは、ドボジデそんなにも集まりたがるものなのだらうか。年賀状いわく。「『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』と寺山が詠んだその年、唐牛憲太郎は新しき前衛めざしてブント結成大会のため、津軽海峡をわたった」。ジャジャーン、安っぽい講談調。で、3月に唐牛没後30年記念講演会をやるから集まりませんか、だと。戦中、南方で人肉食をやらかした元日本兵も、戦後、集まって、焼き肉だかスキヤキだかを食って、おもひでをかたらったらしい。中国・山西省で中国人生体解剖をやってのけた元軍医、看護師らも戦後、「同期会」をやっていた。できることなら解明されるべき不可思議な人間心理ではある。むかしブントでその後、内ゲバ殺人にかんけいしておきながら、口をぬぐうボケ老人ども。元ブントで社長や労務担当役員になってリストラと組合つぶしに狂奔した恥知らずども。見ろ、このザマを!マルクス主義を度外れた楽天主義と誤解していた脳みその足りないおまえたち、黙ってひとりで死ねないのか。憲政記念館でモウロク集団自殺でもしたらどうだ。▼昼、神戸屋のジャムパン1個食す。まずひ!それでも、犬がやってきて、「おんちゃん、そのジャムパン、けんちょ!わだすにも、お願ひ、ごしょうです、ひときれ、けんちょ!」と跳びはねる。われ、うれひ顔にて、ジャムパンの、添加物まみれで、とんでもなくまずひイチゴジャム付着部分を、犬にいやいやあたえる。▼外出せず。エベレストにのぼらず。口がにがひ。▼ファシズムの時代でも、スターリン主義の時代でも、戦争の時代でも、時代のべつなく、いわゆる善人はおおむね善人、いわゆる裏切り体質はおおむね裏切り者、悪党はおおむね悪党、まじめはまじめ、ふまじめはふまじめ、ただのおしゃべりはただのおしゃべり、無口は無口なのだなあ…と、いまさらのやうにおもふ。(2014/01/05)
1月6日の樹.JPG

・エベレストにのぼることができた。一昨日の眠りからであったか、ずっと泥か鉛の海を泳いでいるのとまったくかわらぬ感覚があり、脳および四肢にさらに乱れが生じているとおもっていたので、けふのエベレスト登攀は格別に新鮮で、うれしかった。このところ、記憶を失いつつあるひとのことをあれやこれやとおもいどおしである。けふはMがやってきてラ・ストラーダ・ヴェルデ(LSV)をあるきながら、記憶をなくしていくひとには、回想の回廊もなくなるだろうから、悲しみも消えるのか、喪失の悲しみもないのか、いや、あるのではないか…という話になった。記憶喪失者を外側からだけでなく、喪失者の内側からみたら、どういった風景、模様、色合いが浮かんでいるのか。なにがみえているのか。そもそも「関係」は記憶喪失者を媒介したときに、どう変化するのか。喪失者にとって「関係」とはなにか。記憶喪失とともに残される感情とはなにか。憎しみ、侮蔑、愛、慈しみ、誇り、悦び、味覚、死の概念…はどう変容するのか。話しても話しても尽きることはない。なぜならば、記憶喪失者という総称にはほとんど意味がなく、記憶喪失者Aから同Zまで、ひとりびとり、いちじるしい個体差があるらしいから。Mの母親は、回想の回廊がじょじょにうすれてゆきはじめのころ、「暗い洞窟に入っていくような」恐怖と孤独を口にしていたという。それらを口にしなくなった現在は、では、恐怖も孤独も悲しみもないのか、と言えば、どうもちがう気もする。言語化(対象化)不能の状態は、ただちに内面が無感情化しているのとはことなるだろう。はっきり言えるのは、記憶喪失者の泳ぐ苦しい海が、わたしの入り江にもつながっていることだ。▼またまた『鏡』をみる。なんどみても「未見」のシーンがでてくるのは、こちらの記憶装置がイカレてきているからなのか。マルガリータ・テレホワはときどき狂者の顔になる。(2014/01/06)
1月8日の銅の蓋.JPG

・けふはエベレストにのぼらなかった。毎日、なにがしかエベレストのことを意識する。意識することで、見当識がまだ失われてはいない、とかくにんする。だが、書斎にもどるや、エベレストがどの方向にあるか、たちまちわからなくなる。それでもさほどにあわてはしない。ぼくは脳出血で倒れるはるか以前から、ひどい方向音痴で、嘘つきで、とても非常識な人間であったから、なんでもかんでも病気のせいにはしない。脳血管障害の病棟には、言われるがままに、2か月以上いたことがある。毎日、身体的リハビリ以外に、「記銘」のテストとリハビリがあった。それがいちばん腹立たしく、なにか屈辱的で、不快だった。人間であることの個別性、例外性、意外性が前提されておらず、人間がすでに解明済みの物体のようにあつかわれている…とぼくは反発した。たぶん、米国方式の、機械的な覚え込み学習システムだったのだろう、マニュアルとチャートがすべてできあがっていて、回答結果がすぐに数値化されて、たとえば、ふつう→すこしバカ→一般的バカ→かなりバカ→重度のバカ…といったぐあいに判定されていく。ぼくは退院当時も、一般的バカ段階にとどまっていたようにおもう。認知症や進行性多巣性白質脳症でも、見当識はじょじょにに失われていくというが、見当識という概念が病理だけで定義できるものか、以前から疑いをもつ。存在論的疑惑。「おれはな、まえから必然的に狂人なんだよ。クルクルパー。わかるか?狂人でないことは、ひとつのほかのかたちにおいて狂人であることになるほど、それほどにも必然的に狂人なんだよ…」と、大学をでたてのセラピストのきれいな姉ちゃんに、まわらぬ呂律で告白し、てか、姉ちゃんをからかい、「で、あんた、どうおもう?」と問うたら、そこは狭い個室だったこともあり、美人セラピストはただ怯えてふるえていたっけ。じっさいには経験していないことを、体験したとまちがえて話す「作話」についても、コルサコフ症候群によくみられる症状で、本人は追想の誤りであるという自覚がないというけれども、ぼくは子どものころから作話が大好きで、言いながら嘘かほんとうかじぶんでもわからなくなっていく質だった。「人は、やましいところがないと信じておこなうときほど、存分に、また楽しんで、悪をおこなうことはない」ともパスカルは言うが、これだって、人間というのは本源的に失見当識の傾向があるということではないのか。「人は、やましいところがないと信じておこなうときほど、存分に、また楽しんで、悪をおこなうことはない」とは、過去および現在のファシズムに共通する特徴でもある。ファシストたちとマスコミは連日「作話」を連発し、日々「意味の偽造」「歴史のねつ造」にいそしんでいる。おそらく、悪意さえない、重度のバカたちなのだ。くらべれば、といってもくらべられないが、Mのお母さんは、1個の人間存在として、壊れていけばいくほどに、やはり、いとおしい。(2014/01/07)
2014年01月08日の壁.JPG

・エベレストにけふ、右ルートと左ルートから2回のぼった。純喫茶・朝路で組織会議。コーヒーとナポリタン。トイレ際の席にすわったら、青学の陽子ちゃんが放つオシッコの、長くはげしい雨音が、壁ごしに聞こえてきた。感動。トタン屋根にふりそそぐ驟雨のようなその音について、組織会議で率直に「すばらしい!」と発言したら、全員からきびしく非難され、あげく自己批判を迫られて、落ちこむ。帰宅後、お茶を飲もうと、有機ティーバックを裂き、中身をゴミ籠に捨て、袋を残す、錯誤。また、落ちこむ。朝路でけふづけの新聞をみたことをおもひだす。秘密保護法成立後、新聞は恥ずかしくて発行を停止してるのだとばかりおもっていたら、平気で発行しているのだった。なんだかおどろいた。(2014/01/08)
1月9日のサバノアール.JPG

・風邪気味のため、エベレスト登頂をサボり、ふらふらとカフェ「あらえびす」に入ったら、タバコの煙で店内は客の顔もみえないほどかすんでいる。ミサ曲 ロ短調 (BWV 232) がかかっている。ということは、この煙のなかに味山がいて、食事もとらずに、梯明秀を繰っているにちがいない。たぶん、『物質の哲学的概念』を、なんどもなめるように読んでいるのではないだろうか。なめるようにくりかえし読むことくらい大事なことはない。わからなければ、かんがえかんがえ、わかるようになるまで、わかったような気がしてくるまで、わかったと錯覚するまで、くりかえし読むしかない。目的はない。なにかわかりたいという本然があるだけだ。または、わかろうとしたが、ついにわからなかったという軌跡をなぞりたいのである。ぼくは2階の端に席をとり、本におおいかぶさり、本を隠すようにして、『閾から閾へ』を読む。飯吉光夫の名訳。飯吉先生がたとえどんなかたであっても、名訳は永遠に名訳なのだ。「夜ごとゆがむ/花たちの唇。/さしかわし、いりくむ/唐檜の幹…」。「世界は温暖になる、/そして死者たちが/芽ぶき花咲く」。あらえびすにはトイレのちかくに黒板と白いチョークがある。リクエスト曲を書くのだ。ぼくはおずおずと、ヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」 ト長調 op.78 、ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調 op.100、ヴァイオリンソナタ第3番 ニ短調 op.108と書く。だれかみていないか、後ろをふりかえる。これらの選曲が、なんだか恥ずかしいのだ。ここは会話厳禁である。手話ならかまわないが。みんな黙ってタバコを喫っている。2階席も、地下席も、真っ青な顔をした死者たちで満席だった。白い煙のかげで、青い顔たちがときどき瞬いている。ブルー・シェル、ブルー・ドナウ、ブルー・ワルツの死に顔。青い顔の赤い口からプカリプカリと気持ちよさそうに煙をふきだしている。父らしい顔もみえた。知らぬふり、見えなかったふりをする。このぶんでは、ぼくのリクエスト曲がかかるのは夕刻になるだろう。(2014/01/09)
1月10日の錆びた鉄の壁.JPG

・この世の中は、いろいろ問題はあるけれども、まあなんとかけふもまわっているではないですか。明るい日差しもみえるのだから、そんなに悲観ばかりしていないで、まえをむいて進もうじゃないですか。と言われると、生まれつき気が弱いものだから、やはり、じぶんの目にくもりがあるのか、みえていない光があるのかと、つい反省しないでもない。他方、いまの世はファシズムだ、おそかれはやかれ、戦争状況がやってくるだろう、とじぶんで言い、また、他人にそう言われると、結局、言っていても言われてもなのだが、どうもなにかがちがうな、しっくりしないなとかんじる。この国のファシズムというのは、論理整合性をこえた、土着のものがありはしないか。言いかえれば、「根生(なお)いのもの」があるなあ、「根生いの感情」があるのだなあ、それはじぶんのからだにも漂っているなあ、と察しながら、しかし、その根生いの感情や心意がなんなのか、うまく説明できないでいる。テクノロジーがどれほど発展しようと、ニッポン独特の根生いのセンチメントは、ずっと生きのこってきたし、これからも残るのだろう、とおもう。ながいあいだ天皇という超論理的「中心」に、自己のも他者のも、心身をなつきつかせることを、連綿とやってきたこの癖は、一朝一夕でなおせるものではない。みなが踊れば、われも踊る。みなが泣けば、われも泣く。みなが笑えばわれも笑う。累代それをやってきた。その脈絡もあり、江戸時代におこった伊勢神宮への集団参詣「おかげ参り」に関心がある。数百万人規模のものが、60年周期に3回おこった、といわれるあの現象はいったいなんだったのだろう。根生いの感情となにかのかんけいはないのか。昔日の人口規模からかんがえたって、宝永のおかげ参り→明和のおかげ参り→文政のおかげ参りのさすまじさといったらない。そして19世紀中葉の「ええじゃないか」の狂乱デモ。「日本国の世直りええじゃないか」、「ことしは世直りええじゃないか」、「おまこに紙はれ、へげたらまたはれ、ええじゃないか」…。いまふうの「おかげ参り」や「ええじゃないか」の先頭には、安倍や石破がいる。憲法改定ええじゃないか。秘密保護法ええじゃないか。中韓とドンパチええじゃないか。東京五輪ええじゃないか。これに全メディアが悪のりしている。そして、まつろわない者たちをすべて〈なつきつかせる〉気だ。▼エベレストにのぼった。歯医者に行った。コビトが椅子に立って、歯科助手をしていたので、おどろいた。ミスドで担々麺を食った。うまかった。ミスドのコーヒーを3杯飲んだ。帰宅して、ベッドにすわり、左手で足の爪を切った。そろそろかな、とおもふ。固定電話の修理屋がきた。無愛想。犬がすこし吠えた。修理屋はいちども犬に視線をやらなかった。文庫本を1冊Amazonに注文。歯が疼く。そろそろだな、とおもふ。(2014/01/10)
1月11日に使用した去年の電車内の写真.JPG

その赤いランプのようなものを、鉄柵のこちらがわから、ぼんやりと眺めた。どのような関心もなく。その赤いものは信号灯なのかもしれなかった。信号灯でなくてもいっこうにかまわなかった。鉄柵のこちらがわには、乗りすてられた銀色の、いち台の自転車があって、昼下がりの陽を反射していた。鉄柵のこちらがわの高さは、鉄柵のむこうに見える駅のホームとほぼおなじであろう。その赤いものは、つまり、鉄柵のこちらがわの路面とあちらのホームによってつくられる谷間の、かなりこちらがわよりにあった。赤いランプのようなものは灯されてはいない。なぜかはわからない。わかろうともしない。それは鋼鉄の支柱にしっかりとくくりつけられていた。そのものが赤い信号灯であるとして、その下には拡声器のようなもの、あるいは、なにかの噴出口のような黒っぽく煤けたものも見える。あれはなんだろう、とぼくはおもわなかった。あれらはあれらとして、たんにあそこに、在っただけである。あれが仮に信号灯であるとして、その下の拡声器または噴出口のようなものの下には、相当量のバラストがあった。さらにその先には下り線のレールがある。下り線のホームにはひとが疎らだ。上り線のホームにはいくにんかのひとがいる。そのなかに、知りあいもいるかもしれない。いや、しりあいはもう電車に乗って、どこかに行ってしまったのかもしれない。としたら、知りあいはあのホームにはもういない。知りあいはじぶんの定位をしっているだろうか。たぶん、よくはしらないのではないか。だれも、じぶんの定位をしらない。在るべき位置。わたしもしらない。だからこそ、あの赤い信号灯のようなものがあそこにあるのではなかろうか。あの赤いものにそうやってじぶんや他人のことを仮託することくらいは、いくらなんでも許されるだろう(それくらいは許してほしいものだ)。あの赤いランタンのようなもの、はそうすると、自己方位測定器ということになるのだろうか。そう言っても許されるだろうか。赤い自己方位測定器。もしもそうであるならば、あの信号灯のようなものは、なるべく雨に濡れたほうがよい。「サンティアーゴに雨が降る」みたいに。街は雨に煙ったほうがよい。レールもバラストも濡れたほうがよい。雨でも、雪でも、みぞれでも、血でもよいが。しとどに濡れたほうがよい。そうしたら、「お前の海の 灰と影とを…」と、わたしもうたえるかもしれない。そぼふる雨か雪か血に滲み、かすかに点滅する、その赤いものを、わたしは胸骨に埋めこむことだってできるだろうに。いまはすっかりなにもかもが乾いている。ホームにはヨシいっぽん生えてやしない。ヨシキリいっぴき飛んでやしない。だれひとり谷間の赤い自己方位測定器を見ようともしない。ツユクサ類イネ目イネ科のヨシは、ほんとうはアシだ。なんということだろう。アシと言ってはまずかろうと、アシなのにヨシと言わせる。ほんとうに古来インチキなクニだ、アシハラノナカツクニは。楽園アアルは、ヨシではなく、アシがしげる満目の原野なのだ。ホームにいるのはアシでもヨシでもない、ただの枯れ穂の影だ。あの赤いものを、鉄柵のこちらがわから、ぼんやりと眺めた。▼エベレストにのぼらなかった。エベレストにはのぼれるのにのぼらず、けふもまた歯医者に行った。犬をバックに隠してつれていった。犬は吠えなかったので、気づかれなかった。喋るのがひどく億劫だった。わたしは必死で話そうとはしていないじぶんに気がついていた。わたしは鎮痛剤をのんだ。胃薬をのんだ。降圧剤をのんだ。精神安定剤をのんだ。ドラッグストアで安い手袋を買った。左手で冷えきった鉄の手すりにつかまるための、大きな灰色の手袋。歯医者の診察券をなくしてしまった。熱心に探しはしなかった。ミスドにいかなかった。ダフネにもいかなかった。夜、いつかの腰椎麻酔のこと(溶暗)と、これからするかもしれない旅のことを、すこしかんがえた。スイセンがまた灯油のようににおった。(2014/01/11)
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日録1

私事片々
2013/12/28〜2014/01/04



緑色の電話.JPG

・ドゥシャンベに行ったことがある。なにをしにか、憶えていない。膝を立てて、いつもあおむいていた。バスでサンタフェに行った。フェニックスに行った。なにをしににか、さいしょから、なにも、わからなかった。膝を立てて、モーテルで、いつもあおむいていた。1978年、ラサに行った。シアメンに行った。なにしにか、忘れた。1979年、ピンシアンにも行った。肝炎にかかった。両手に小石をにぎって、ノグソした。小石をにぎってゲリしまくり。ホテルなんかなかった。夜、走った。走った。なにをしにか、すこし憶えてるけれども、だいたい、ほとんど忘れた。アオメンにも行った気がするが、アオメンって、どこかわからない、アオメン。帰りたかった。どこに。ずっといつも帰りたかったんだよ、ルーリン。おれはそのむかし、アオメンに行った。とおもうのだ。しかし、アオメンってなんだ?忘れた。しかたがない、大辞典でアオメンをしらべます。書棚の最上段から、大辞典をとりだすのに5分。大辞典をお股にはさみ、箱からだすのに3分。おれの、よくつかいこんだ股ぐら。愛知大学の中国語大辞典。第2版。デスクからルーペをとりだすのに2分。ao-menの頁をめくるのに3分。アオメン。ない。わたしのもとめるアオメンがない。ふたたびルーペあてる。ない。なかった。あまりにも、ひどいじゃないですか。左手で、その大辞典を、股にはさんだ箱に入れるのに、頁が折れてしまい、すごくてまどり、てか、股どり、はい、また6分。つかいこまれた、ぼくの股ぐら。なにをしにか、忘れた。お股ぐら。お客様、お時間、またすぎました。ご延長しますかぁ?箱に入れた大辞典を、書棚の最上段にもどすのに、また5分。すぎてゆく。かすめてゆく。すぎてゆきました。すべってゆきました。とけちゃいました。アオメンに行ったはずなのに、アオメンがない。アオメン。ルーリン、いつまちがえたのか。ぼくはなにをまちがえているのだろう。スペインのような白い壁。白い石畳。湿気った空気。潮のかおり。ハマグリのスープ。肩まで長髪だったぼく。戦争なのに、敵も味方も意味も言葉も色も区別もよくわからない、熱い、ドロ餡の闇。蛆人。国境。骨までわれた傷。うごめく蛆。蛆人。蛆池。蛆湖。蛆5湖。にもかかわらず、たった1分で勃起する、サングラスをかけたバカ男。前歯でサイダーの栓を、スパンスパン、あけていた、あほんだら。なにをしにか、なんのためか、忘れた。大脳古皮質の割れ目ちゃん。ツポレフに乗った。トライデントに乗った。アントノフに乗った。不時着。コークの栓も歯であけた。プシュー。たしか、ぼく、アオメンに行ったはずなのに、いま、アオメンがない。歯もない。毛もない。記憶もない。ノボシビルスクにも行った。スージョウにもいった。フホホトにも行った。なにしににか、なに死か、忘れた。たぶん、クソしに行った。おおかたそうだ。タリンにも行った、ルーリン。チャールストンにも。なにしにか、なに死か、忘れた。帰りに、帰るために、おそらく、行った。どこにか、わからない。レニングラード。いつも、どこでも、しゃがんで大便。立って小便。大排泄に小排泄のくりかえし。食っちゃ、だし、食っちゃ、だし。ダナン。フエ。なにしに、どぼじで、うごいていたのか。とんと憶えていない。死に海馬。なにをしにアオメンに行ったのか。いつ、アオメンに行ったのか。アオメンてなにか。憶えてない。国境でセンザンコウを食った。丸焼きでした。パチパチ。拍手した。ディンハオ!ハラショー!便所でセンザンコウ的便をした。甲羅1枚もろた。帰りたかった。どこかに。樟脳。蛆。蚊柱。無人の小学校。ヤモリ。氷。おれの血を吸うシマダラカ。その蚊を食う蛾。その蛾を食うヤモリ。さかって鳴くヤモリ。天井を這う、蛾をくわえたヤモリ。首まで口の裂けたヤモリ。ワニの真似をするヤモリ。天井からパラパラと糞をこぼす、ヤモリ。膝を立てて、汗かいて、ヤモリの糞あびて、いつもあおむいていた。なにしに行った?なーんにもわからなかった。ピーチストリートで電話をした。だれに?忘れました。受話器が壊されて、中身がえぐられていて、耳が受話器の穴に挟まって、困った。当惑した。帰りたくたって、そんなもんだ。困るのだ。当惑しちゃうのだ。お客さん、なに死に、なのですか。またご延長なのですね。水瓶に落ちてくる、蛾を食いすぎた、アオメンの、太ったヤモリ。ポシャーン。やさしい着水の音。波紋。アオメンの、停電の夜の、黒い水瓶。ヤモリたちが、ワニみたいに、ぬるぬると、宇宙を泳いでいたのだ。男の顔がひとつ、映っていた。(2013/12/29午前)
マルホランドDR.の霜柱

・マルホランドDR.で霜柱を見た。この冬はじめてではない。見たのははじめてではないのだが、霜柱を目玉のなかに立てたのははじめて。帰るまでには溶けているのだろう。とおもってあるき、帰ったら、まだ溶けずにいた。歯が痛い。肩が痛い。いてえ。いててて。手が痛い。ジンジンする。右手が、つっぱって、鶏の足みたいじゃないか。歯と肩と右手に、霜柱を立てる。知覚過敏が激化し、痛いのか、なんだかわからなくなる。ズキンズキンする。自転車屋のまえで、素っ裸の黒ラブを見た。黒ラブが好きだ。黒ラブを好きだ。倒れなかったら、黒ラブといたはずだ。と言ったら、ガガがかわいそうだから、言わない。ガガは最高だ。人格者だ。犬はなんでも好きだ。大バカでも利口でもマヌケでもスカトロでも。ネコも好きだ。気が狂った、毛のボサボサの、狡くて、気性の荒い、なつかないノラネコが大好きだ。ブラブラあるいていて、とつぜんたちどまり、ふりかえり、またあるきだす、あの思考の間と、懈怠の流れにうっとり見とれる。アオメンをおもいだした。午前3時半に。澳門だ。なーんだ、つまらない。フェリーに乗って、カップ麺を食った。きっとどこかでクソしただろう。1日1回クソしつつ、70年生きたとしたら、一生で最少でも25550回クソすることとなる。意外に少ないよな。1日2回で70年なら、51100回、つうか、51100本。だいたい、そんなとこだろう。内モンゴル自治区のどこかで真冬の夜、クソした。屋外にしかトイレ、じゃなく、厠所(ツースオ)がない。電灯もない。しゃがんで懐中電灯で板敷き2枚の下をてらしたら、3メートルも下で糞便がカチンカチンに凍っていた。逆さに落ちたら、クソにぶつかり脳挫傷になっていただろう。じぶんのクソとともに凍りついて、春まで溶けずにいたかもしれない。さがしていたのはアオメンでなかったとしたら、どこなのだろう。わからなくなってきた。内モンゴル自治区に行ったのは1977年か。なにをまちがえられたか、わたしは「閣下(グーシア)」と呼ばれた。「閣下、われわれ人民の厠所は非常に暗く深ひのであります。ゆへに、落下しなひやうに、くれぐれもご注意くださひませ!」て言われた。閣下は枯れた草原でクソばかりしていた。華國鋒政権のころ。そうだ。冬のビリュニスにも行った。クソをしに。大したことはなにも憶えていない。ホテルで、テレビをつけっぱなしにして、シュト―とかツェロバーチとか、わけのわからない言葉を聞くともなく聞きながら、ひとりでクソしたことだけはたしかである。パジャールスタ!アオメンでなかったとしたら、どこを探していたのか。たしかなことは、何十年も毎日クソばかりしてきた事実だけである。けふ、エベレストにも霜柱が立っていた。右側の登攀ルートは滑るか、ぬかるかして危険だ。左の尾根からアタックして、2度失敗し、3度目に登頂成功。もういちど『鏡』を見ることにした。(2013/12/29夕)
おぼろ.JPG

・冬のイルクーツクに行ったおぼろげな記憶がある。だが、それがなんだというのか。わたしがどこかに行った経験は、どこにも行かなかった無経験と、大した差はない。いまとなっては、厚顔の経験者たちより、無経験の水面のほうに惹かれたりする。『鏡』をまた見た。なんど見ても、目が冷たい井戸水に洗われて、まるではじめて目にするようにドキドキするのはなぜなのか。映像と言葉と音楽――の想像と深まりゆく無経験。「状況」にいらだち怒ることによって、愚かな「状況」からついひきよせてしまう下品な浸透圧。結局、内面の愚劣度数は「状況」とじょじょに拮抗し似てくるのだ。『鏡』を静かに見ることによって、汚らしい「状況」の浸透圧を押しかえす。秘密保護法に反対するのなら、新聞はーーそこではたらく個人たちは、という意味だけれどもーーストライキをすべきだった。少なくも、それを目指すべきであった。白紙の新聞、記事の載っていない新聞をだしたらよかったのに…。ぼくはそうおもったし、いまもそうおもう。安倍政権はきわめて危険である。ほんきで倒さなければならない。むろん、ストライキなどおもいもつかず、ロバの屁のような社説でお茶をにごし、きょうもそしらぬ顔で「ニュース」なるものを生産、偽造しつづける、個人のいない新聞と、それら下品な浸透圧の犠牲となる読者たち。困ったことです。そう言いつつ、秘密保護法下の状況を不作為によって支えるひとびと。批判者たちの、アジビラていどの語法とボキャブラリー。下品な浸透圧は、反ファッショの側からも生まれている。いまは権力の実相がきもちわるいだけではない。反権力を自称する者らの立ち居ふるまい、目つき、腰つきも、なにやら怪しい。戦端は、ひとだのみにするのでなく、「個」がいま、みずからひらけばよい。惨めになんどでも負ければよい。『鏡』のなかでは、できごと、あるいはエピソードが、大状況であれ些事であれ、記憶と意識の襞に、きっとそうでしかありえないだろう「個」の濃い翳りと不思議な逆説性をおびた風景として埋めこまれ、見るわたしを「下品な浸透圧」からいっとき解放してくれる。とくと安心して、反状況の下意識の流れに、身をまかせることができる。ぼくは冬のクリリスクにいたことがある。ロシア製の猟銃を撃った。デコイでおびきよせ、カモを撃ち殺した。とても恥じた。悲しんだ。うしろむきにかしいだカモの、にこ毛の飛び散りを、まだ憶えている。海辺で化石をひろった。カモを煮て食った。しかし、それがいったいどうしたというのだ。経験の総量が、認識の深化をたすけるというのは、とても幼稚な経験主義にすぎない。経験はかならずしも認識を深めてくれるものではない。ぼくはどこかに帰りたいだけだったし、いまでもそうだ。エベレストにのぼった。コビトが九州から電話をくれた。ウィンナワルツとイタチの話をした。(2013/12/30)
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・中国とソ連はかつて全面戦争をしかねない緊迫した情勢にあった。核戦争を。そのことを、まったくそんな映画ではないのに、『鏡』をみていて鮮やかにおもいだした。できごとと個の意識、できごとと個の認識、できごとと個の記憶、できごとと個の忘却、できごとと個の無関心、できごとと個の誤解、できごとと個の無関係そして「通念」というもの…について。ダマンスキー島事件。文革の100万人デモ。まことに尋常ならざる風景を、実時間では、ただおもしろがってながめていたりしたのだから、人間集団とは、というより、わたしはけだし度しがたい。戦争は目前にありえたし、こんごもありえる。戦争は、それが戦争とも意識されずに、ある日、ふと気がついたら、はじまっているだろう。『鏡』に挿入されたドキュメント映像は、どうしてあんなにもリアルなのだろうか。タルコフスキーじしんの恐怖の目がはりついている。あのころ、わたしは中国語の講師をしていて、テキストに『毛主席語録』をつかっていた。クレージーとはとくにかんじていなかった。その記憶に、いまごろひどく傷つく。戦争はありうる。人間はさいきん突然変異してばかになったのではない。はるかむかしから一貫してばかでありつつけている。新聞各紙が、安倍首相夫人のなんとかさんをほめちぎっている。夫人も靖国を参拝したと報じ批判したのは韓国紙だけだった。▼マルホランドDR.をあるいていたら、ハンドルが長く前輪が後輪より大きな自転車にのった2人組の外国人に呼びとめられた。2人とも、ダークスーツに細いネクタイをしている。そっくりだ。双子だろうか。かたほうが「あんたのメジェットはどこにいるのか?」とアイダホ訛りの米語で問うてきた。メジェットがよく聞きとれず「はあ?」と首をかしげると、very little ladyと言いなおす。ああmidget か。このへんには4、5人いるけど、どれがどれやらわからんね、ととぼけた。すると「おかっぱで、嘘つきのコビト…」というので、ぴんときた。クララだ。クララはやはり狙われているらしい。昨夜の電話も盗聴されていたし。わたしは「このへんにゃ嘘つきのコビトなんかひとりもいねえよ」と言いきり、「おまえらはモルモン教徒か?酒のまんのか?blow jobせんのか?じゃあ、カクテルのblow jobも知らんのか?」と意地わるく質問した。すると、2人組が急に怒りだし、なんだか失礼なことを言うので、「バカヤロウ、失せろ、オバマのケツの穴でも舐めてやがれ、fuck you!」と言いかえしていて、はっと気がついた。fuck you!が、やはりと言うべきか、コビトと犬以外に話した、ことしさいごの言葉なのであった。▼エベレストに2回のぼった。▼『サクリファイス』をまたみる。▼コビトから電話がきた。双子のモルモン教徒の話をつたえると、異常に興奮して「やつら、かならずまたくるはずよ!」と念波で言う。かれらが乗っていた自転車の特徴をよく知っていた。コビトは認知症の母親の世話をしている。(2013/12/31)
冬花.JPG

・北京の友誼商店では、むかし、黒竜江省産の、黒緑色に光るそれはみごとなキャビアを、ジャム用のガラス瓶いっぱいに入れて、イチゴジャムていどの値段で売っていた。そのキャビアを納豆でもかけるみたいにご飯にぶっかけて食っていた、なんとなくのどかな時期があった。あたりまえだとおもっていた。未来はよめない▼スーパーもダフネも休み。マックかミスドしかなひ、となると、東口のミスド。アライグマのような新人女店員がイト・カワユス。ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンそっくりの口ひげの客がひとり座って、ニマニマ笑いながらスマホをやってる。よひ!いかにも亡命者と難民と世捨て人の街だ。ここでは全員がガイジンで、全員がどこかしら壊れていて、全員がたがいをだれか知らないし、知ろうとしない。ううう、コーヒーがいつもよりまずひ!にがひ。がまんするしかなひ。九州のコビトからメールがきた。認知症の母親が急に不機嫌になり、「うるさい、帰れ!」と罵られたという。かわいそうに。相手が認知症とわかっていても、感情表現の突変には、身内ほどかえってついてゆけないものらしい。少しずつ壊れゆくひとびと。最後に残る感情のようなもの。ヴァルラーム・シャラーモフが書いていた。最後までかれに残ったものは、憎しみだった、と。条件も本質もまったくちがうのだが、コビトのお母さんの話を聞くと、シャラーモフの「憎しみ」をおもってしまう。メールでコビトに返事を打っていると、店の奥のピザパイ屋から男の客の怒鳴り声。「パガヤロー!ガネガエセーッ!」。どこの国の出身かわからない男がすごい剣幕で怒っている。店中が凍りつくが、さすがスターリン、ふりむきもせずにスマホを見てニマニマ笑いつづけている。▼店をでて、ストラーダ・ヴェルデにいく。緑地のむこうから、すぐに歌だか奇声だかが聞こえてくる。「キエメーロ・オッチョン・ジギム・ホエッ・ホエッ・ホエーッ!」。ここにくると、ほぼかならずであう不本意発声者たち。大きな声ほどに顔はなにも悦んではいないのだ。逆に、苦悩にうち沈んだ面差しをしている。「キエメーロ・オッチョン・ジギム・ホエッ・ホエッ・ホエーッ!」。介護の青年がイエス・キリストのような表情で、声を発する猫背の若者の背をやさしくさすっている。じぶんの意思に反し声を発っしてしまふ若者は、ぜったいにわたしと目を合わせはしない。なぜか、ぜったいに。なぜか、わからないが、わかるやふな気もする。わたひらはたぶん、よく似ているのだ。ホームレスの新顔を見た。やや太り気味の女性だ。西太后みたいな顔。「ああ慈禧太后(ツーシー・タイホウ)、お労しい、こんなところにおられましたか…」とつぶやくと、かのじょ、わたしを悪戯っぽく見返して、ペロリと舌をだし、アキニレの陰にかくれた。あちらのオヒョウの陰からは、双子のモルモン教徒が、けふも細いネクタイをつけ、白ワイシャツにダークスーツ姿で、わたしの動静をうかがっている。わたしは一瞬、ここがあの「アオメン」なのかとおもってしまう。▼ミスドにいくまへに、エベレストに2回のぼった。▼夜、コビトから電話。明らかに疲れてきている。いちばん親しい肉親の短絡を連日一身にうけているものだから、みずからも悩乱し、葛藤している。かわいそうだ。▼また『サクリファイス』。なにか、あの日本趣味のようなもの、尺八(法竹?)の音色も、どうも気に障る。なぜだろう?(2014/01/01)
うろうろ.JPG

・この国は、ヒロシマ、ナガサキがあるために、ずいぶんかいかぶられてきた。絶大な経験はひとの認識を深める、とかんがえるひとびとにより、もともと深い精神性をもつ日本の思想文化は、ヒロシマ、ナガサキの空前絶後の体験によって、かならずや、さらに深淵なものになっているはずである、とかいかぶられてきた。誤解である、善意の。この国の思想文化は、残念ながらヒロシマ、ナガサキの経験をほとんどすこしも血肉とはしていない。かつても、いまも、おそらく、未来も。アラン・レネ、ロラン・バルト、そしてタルコフスキー、ボードリヤールにさえ、日本への好意的誤解があった。誤解はなんらかれらの罪ではなく、かれらの自由であり、勝手である。罪というなら、ヒロシマ、ナガサキの経験をほぼ消費しつくして、観光的表象(というより“商標”)だけを残して、反核反戦の思想と魂の基地をつくることがついにできなかったこちら側にある。経験は、いつもかならず自動的に、認識を深めるというものではない。フクシマについても。とくに、この国の社会なきセケン(世間)とゴロツキ政治においては。侵略戦争のかぞえきれないほどの加害責任を、東京大空襲とヒロシマ、ナガサキのホロコーストで、ご都合主義的に相殺する、チャラにすることで、いちどとして激烈な内省をしなかっただけでなく、ヒロシマ、ナガサキの責任追及をあっさり放棄し、天皇制ファシズムの歴史的検証もネグレクトし、いまや侵略戦争そのものとそれに付随したおびただしい犯罪を正当化するまでにいたっている。日本が今後、憲法を改定する公算は論なく大である。徴兵制ないし準徴兵制にふみきる可能性もあるだろう。45年に廃止された治安維持法(実質的に再生しているけれども)が、新しい装いで復活する可能性もつよい。将来的核武装化の可能性はもはや絶無ではなくなった。『サクリファイス』をみながら、例によって、茫々と妄想にふけった。経験は直線的に認識を深めることはない。とりわけ、テクストとされた集合的経験と記憶は危うい。経験と認識は、権力にゆだねるものではなく、あくまでも「個」の向自的作業であるべきだ。たしかこんなセリフがあった。「わたしはこの時を待っていたのだ…」。じっとじぶんに耳を澄ますと、わたしにも待っている気配がある。平和やそのための「犠牲」となることではなく、全面的核戦争でも大震災でも巨大隕石の落下でもなんでもよい、徹底的な全的破滅をどこか待っている心もちがある。それまでの一瞬になにを見て、なにをかんがえるか…だけがテーマである。▼犬がベランダに糞をしたので、心静かに、ゆっくりとかたづけた。午後3時半すぎ、東口のミスドとストラーダ・ヴェルデをめざしアパートをでるも、寒風意外にきびしく、目標をきゅうきょ下方修正し、マックに行ったら満員。しかたなく、なんだか形式的にエベレストにのぼってお茶をにごす。▼かへりみち、郵便屋オットーの言葉をおもいだした。「いままでの人生は本物ではなく、ずっと永いあいだ本物の人生を待ってたにすぎないのだ…」。言外に、本物の人生なんかない、ただ死を待つだけ、とかたっている。このしゅの人生論はなかなかおもしろそうで、じつはとてもつまらない。人生論はどうやってもつまらないものなのだ。『サラバンド』の80をとうにこした老人が吐きすてる、じぶんの人生など「クソだったよ…」のほうが、すっきりしていてよほど好きだ。▼コビトからメールあり。マルコを散歩させていると。▼きのふ撮った写真。よく見ると、きったない肛門みたいだ。どうしてこんなものを撮ってしまうのか。でも、この穴のなかに、ハッキリしないが、なにかが見えるのだ。(2014/01/02)
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・エベレストに1回のぼってから、マルホランドDR.をぬけて東口のミスドにいったら、正月の特別キャンペーンなのだろうか、人間の店員が総入れ替えされていて、全員犬になっていた。ダックスフントのピコちゃんが店長で、ミックスのエスタ、同ポチコたちが副店長、その他、名前不詳のセットランドシープ、ポインターのピーター、柴系ミックスのモックなどがいて、そろいのベージュのキャップをかぶり、シマシマのTシャツを着て、鼻で押す花柄の美しいワゴンでドーナッツやコーヒーを忙しく運んでいた。すこし犬くさいけれども、気になるほどではない。他の客もなんら違和感がないらしく、犬店員に話しかけたり触ったりしている。文庫本を読んでいたら、エスタに「お客様、コーヒーをおかわりなさいますか?」ときかれ、昨日まではたんに「おかわりしますか?」であり、それでじゅうぶん満足していたのに、それ以上の接客サービスをねらっているんだな、とおどろきつつ、明るいきもちになった。西口のマックには犬店員制がなく、不良高校生とボケ老人たちのたまり場になって荒れ放題であり、これではミスドの楽勝だな。▼ミスドをでて、ラ・ストラーダ・ヴェルデに歩を進めたら、とおりすがりの離脱性アカシジアの婦人に声をかけられた。やんわりぼくの内心をとがめているようだ。「ラ・ストラーダ・ヴェルデって、なんだかひびきが大げさよ。犬の糞だらけじゃないの。ケンフンドウと呼ぶべきよ。Sange is the glamorized expression that refers to Japanese soldiers dying in battle…」。飛躍である。だが、そうなのだ。ひとは大したこともないものに、大げさな名前をつけたがる。わるいことを美化する。flowery wordsってやつだ。「散華」か。ひどい言葉じゃないか。責任とれよ。トウネズミモチの樹の近くのベンチに、クララのお母さんが髪ふりみだして、ひとりで座っていた。かわいそうにこの寒いのに裸足だ。おもわず声をかけた。年始のあいさつもせずに。「お母さん、どうされましたか?先日、美容院にいらっしゃったばかりでしょう?」。クララのお母さんが答えた。「逃げてきたのよ。あの美容院たら、北極みたいに寒いのよ。わざと暖房をとめて、わたしを凍死させようとするの」。クララはどうしたのですかと聞いた。すると、あの娘はいいときはそりゃあすばらしいのだけれど、わるいときはねえ、根っからの嘘つきだし、心にいちいち棘があってねぇ、父親と組んでわたしを虐待するのよ…と嘆くので、コビトとしてはずいぶんよいほうじゃないですか、とクララをかばった。かばっているうちに、じぶんもなにか愚痴を言いたくなり、@元旦からずっとミスド通いであることAこの9年、ひとに爪を切ってもらったことがないことBじぶんで目薬を入れることができないこと――などをくどくどと嘆いて同情をさそった。お母さんは目に涙をためて、すぐにわたしの手をとり「かわいそうに。左手の爪が切れないのでしょう…」と呟きながら、ゾーリンゲンのすばらしい銀製の爪切りで、両手の爪をきれいに切ってくれ、「さあ、お顔をあおむいて」とおっしゃって、両目に目薬を2滴ずつ垂らしてくれた。じつに手際がよい。目を2、3回しばたたいて、おどろいた。白内障がなおっている。20メートルもはなれた大樹につけられた札に「ニセアカシアRobinia pseudoacacia」と書いてあるのが見えるのだ。わたしはなんどもお礼を言い、こんど虐待があったら、かならず連絡をください、と告げて、携帯の番号をおしえた。しばらくあるくと、サルスベリのまえにベンチがあり、マックスが見知らぬ女性と座っていたので、「はじめまして!長いこと連絡不行き届きで、すみません!」とお詫びした。マックスは「まあまあ、そんなにかたくならないで…」と手でわたしを制し、ところで、いつごろくるのかと聞くので、年内にはおうかがいしますと答えた。マックスは、でもワンちゃんはどうするの?と心配してくれたので、わたしは正直に「それだけが気がかりで…」とこぼした。マックスは、いっしょにきなさいよ、いいとこだよ。公園広いし。温泉もあるし。そうだ、みんなでオイチョカブしようよ、と言って笑った。トウカエデのまえのベンチには中平さんと南がいて、2人でスパスパ、タバコをすっていた。南が「ハーイ!ミンヘー、元気なの?」と言ってたちあがり、タバコをもったままわたしをハグしてくれた。南のからだは紙のようにペラペラしていた。中平さんは「いままさに、ユーフォリアですよね、ユーフォリア。根拠ゼロ…」と言い、e・u・p・h・o・r・i・aとスペルをひとつひとつ口にしてみせるのであった。わたしが、同感、同感、オータドーカンと応じたら、トウカエデの陰から突然、ぼっこちゃん、中川君、ほんちゃん、細田さんたちも次々に登場して、みんなで大笑いした。マグノリアの下で、たしかに見覚えはあるのだが、名前といっちしない女性たちが、じつに幸せそうにビールマンスピンやイナバウアーをしていた。それは自己満足のためではなく、相互理解と自己確認のためなのだ、とだれかいいかげんなやつが説明をしてくれたが、わたしはむろん信じはしなかった。だれがそんなことを信じるというのだ。かのじょたちがじつは、それぞれの陰核に小さな剃刀をはさんでいる、という嘘であるならば、心から信じることができるのに、なにか救われるのに、相互理解とか自己確認なんて、おお、いやだ、ウンコ以外のなにものでもなひ。ぼくはきのう見た、くだらなひ映画の、それだけはベストのセリフをおもひだした。「わたしたち愚かだったわ。よかった、愚かだとわかって…」(2014/01/03)
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・エベレストにのぼった。麓のベンチで防犯監視員のじいさんが着ぶくれてあおむき、眠るか脳溢血死するか凍死するかしていた。通報せず。強風下、勇を鼓してマルホランドDR.を1周す。だれにも逢わなかった。ウクライナ人の性転換者(♂→♀)にも、チェコ人のオカマにも、双子のモルモン教徒にも。パトカーがきたので、こちらから近づいてゆき、窓際で、都公認の第2級ヨイヨイあるきをいつもよりもはげしくやってみせた。『メリーに首ったけ』の要領で。パトカー去る。アパートにかへったら、志位和夫様と市田忠義様ご連名の年賀状がきていた。どのくらいの枚数を配っているもんなのだろうか。15日から26回党大会なんやて。「自共対決」時代の本格的はじまりにふさわしい政治、組織方針をきめるんやて。さよか。駅で買うたクリームパン(105円)を立ったまま食ふ。クリームがおもったより少のうて、われ、いとどしく不満なれども、犬、下からみあげて「わちきにもひときれおくんなまし!ね、そこの若だんな、おくんなましな!」と、ブルブルふるへてせがむので、「君には、志位さんの気持ちがわかっとんのか、チェコ人のオカマの心がわかってんのか?テンノーヘーカのお気持ちがわかるんか、わかろうともしてないんやろ?」と咎めると、「なにゆうてますのん。ほんなもん、犬かてよーくわかってまんがな」と言うたので、ひときれあげるまえに、恒例の廊下ラン7回やっていただく。ひときれあげると、「あっ、クリームぜんぜんついてへんえ!これ詐欺ですやん、虐待や!」とさわぐので、ご近所のてまえもあり、クリームがわずかに付着した状態のひときれをまた食べていただく。▼結局ぼくは『サクリファイス』を、慎重に3度もみて、3度目に、いっしょにみていた犬も呆れるほど、声をだして笑ってしまった。笑ろた。白けましてん。犬は大まじめな性格やさかい、お笑らひにならんかってんけども。お狂いになったアレクサンドルがまとう和服らしき衣類(背中に太極マーク!浅草仲見世のみやげもの屋=プラスチックの寿司も売ってる=で買うたか?)、尺八(「法竹」とかいう)らしい和音階そして、きわめつきはあの「日本の木」なるものに力なく笑ろた。失笑。“奇跡の松”でしたっけね、あれのさきどりになるのでしょうかね、あのアホらしさに鼻白んじゃったわけね。なんていうんでしだっけ、スタジオジブリとかいふの、あれっぽくて、つまりどすね、毒にも薬にもならん、現状の批判的肯定てのか、しいて市民運動のレベルでいえば、せいぜいがんばっても国会を人間の鎖で平和的にかこむていどの、かへって手のつけられない、自己満足になってるんですもん、あかんですわ。核戦争のリアリティを、夢だとか魔女だとか「日本の木」だとかでごまかさんでほしひわ。ベルイマンの『恥』、クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』のほうがまだマシ。タルちゃんてひょっとしたら、かなりのオプティミストだったんかもね。エンディング・クレジットはなんだっけ、えーと、そう、「希望と確信をもって」だった。なかなか言えるもんやおまへんでぇ。やれやれ。(2014/01/04)
posted by Yo Hemmi at 14:14| 私事片々 | 更新情報をチェックする