
「存在の偶然性は見せかけでもなく、消し去ることの
できる仮象でもない。それは絶対であり、したがって
完全な無償性である。すべては無償だ、この公園も、
この町も、私自身も。それを理解すると胸がむかむか
して、すべてはふわふわと漂い始める。・・・」La Nausée
「しかし、何とお粗末な噓だろう。誰も権利など持っ
ていはしない。彼らもほかの人間と同様にまったく無
償であり、自分を余計な者と感じないわけがない。」
栄山関らと一緒に正代応援。負け越し。勝っても負けて
もつまらなそうな顔。そこがいい。
「私はマロニエの根だった。と言うよりもむしろ、完全
に根の存在の意識になりきっていた。・・・」
「至るところに、無限に、余計な存在がある、常にどこ
にでもある。存在は──存在によってしか限定されない。
私はこの発端のない存在物の氾濫に呆然と打ちのめされ
て、崩れるようにベンチに座った。至るところに孵化があ
り、開花があり、私の耳は存在でぶんぶん耳鳴りがしてい
た。・・・」
「木は、存在したいとは思っていなかった。ただ、存在を
やめるやめるわけにいかなかったのだ。それだけの話であ
る。」
「自分自身の死を内的必然性として誇らしげにおのれのう
ちに抱えているのは、音楽の調べのみだ。ただし音楽は存
在ではない。すべての存在者は理由もなく生まれ、弱さに
よって生き延び、出会いによって死んでゆく。・・・」
「どこからこうしたものが出てきたのか、どうして何もない
状態ではなく、一つの世界が存在することになったのか、そ
れを不思議に思うこともできなかった。それは意味がなかった。
世界は前にも後ろにも、至るところに現存していた。世界以前
には、何もなかった。何一つなかった。・・・」
似たような問題提起を中島敦もしたことがある。
「あたしは余生を送っているの」
わたしもいまは余生を生きている。だがしかし、余生とは何か?
本生≠ネどないなら余生もないはずだ。疲れた。
posted by Yo Hemmi at 21:40|
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