2017年08月08日

書きえぬこと


◎「わたしたちの殺りく」

やまゆり園事件のことをおもうと、ドストエフスキーもチェーホフも
テネシー・ウィリアムズも、アーレントも、レーヴィでさえも、こな
ごなにくだけちります。書きえないのです。

Uが実行した重度障害者の殺りくを、わたしはどこかで「わたしたちの
殺りく」と、たしかにおもってはいるのですが、書きぬけないのです。
あれはみためは「単独正犯」だったけれども、より本質的には、われわれも
からむ「共同正犯」でもあったのではないでしょうか。

あの青年は、施設でのみずからの経験と社会に伏在する集合的無意識を
むすびつけ、かさねあわせて、果敢にも世界をひとりで代表し、晴れやかな
善行≠ニして、あれだけの凶行におよんだ可能性があります。
でなければ、まったく無力のひとびとを屠りつづける、痛苦にみちた、
そして反復的なあの時間と動作を持続できるものではありません。

かれは賛嘆の声を幻聴しつつ、努力し、殺りくを達成したのです。それは
あながち幻聴とは言えず、いくえにも反転し屈曲した、げんじつにある歓声
だったのかもしれません。そして、1年前の事件が、死刑制度とその執行と
まったくむかんけいと言いきることもできません。重度重複障がい者とその
関係者へのまなざしは、まだまだ浅かったことをみとめないわけにはいきません。

ふたたび、それらを存在させている存在そのものの、意味または無意味について
おもいます。価値と無価値ー意味または無意味(=ことば)より先に、それらの
存在(身体)と、それらを存在させている存在(差別・排除の意識と無意識)が、
すでにして、わたし(たち)とわかちがたくあるのだと感じています。














posted by Yo Hemmi at 17:13| 所感 | 更新情報をチェックする