2018年07月17日

逝く


◎昼下がり、逝く

その方が13時40分に旅立たれた。というより、これでやっと
永遠に休めることになった。長いこと遷延性の昏睡におちいり、
わたしはずっと写真の寝顔≠みつづけた。『月』を書かせ
てくれたのは、あの方の不在のような実在だった。『月』の
脱稿をまっていたかのように、かれはひっそりと逝った。

意識がないとみなされるものの内面について、かれはわたしに
もっとかんがえるよう迫った。かれはなにひとつその身ではでき
ないのだった。発声も歩行もまばたきも。抱擁も殴打も排泄も。
指一本うごかなかった。痙攣のようなかすかな震え以外はなにも
うごきはしなかった。

夢をみているのかどうかも、しかとはわからない。家族は、みてい
ると主張したが、医師はまったく無関心だった。わたしはみている
と確信していた。それが「夢」というにふさわしいかどうかべつにし
ても。けっきょく、その方はさいごまで自己存在を主張しようとは
しなかったのだ。抗弁も自己弁護も、ついにしなかった。証そうと
すら。

かれは長く生と死のあわいにあった。もしくはそのようにみなされ
た。そうした位置づけを、わたしは大ざっぱすぎるとかんじていた。
生と遷延性の無意識と死。区切り方がこれでは乱暴である。とじた
瞼の下で、その方の眼球はぐりぐりとうごき、のどはなにごとか語ろ
うとして、のどぼとけをさかんに上下させた。

生と死とそのあわいのほかに、さまざまの存在的な領域があることを
おしえられた。透明度の高い、あるいは混濁した領域である。

その方はまた、わたしにこういうことをおしえた。うすれゆく意識の
がわからは、いったいなにがみえているのかーー視点の入れ替えがだ
いじなのだよ、と。つまり、なにも語らぬものに、わたしはどうみら
れているのか。寝姿はさらに、存在に意味と価値はつきものではない
・・・と、つよく示唆していた。わたしは『月』を書いて応答するしかな
かったのだ。

かれはもはや無用の生ゴミであった。尊厳もヘチマもありはしない。
無用の生ゴミには、屈辱をかんじるけんりもない。無用の生ゴミは
すでに弱者ですらない。無用の生ゴミは、おどろくべきことには、まっ
たく共感も同情ももとめないのであった。写真を、わたしはまいにちま
いにちみつづけた。意訳にすぎるかもしれない。〈ほっといてくれ!〉
ーーかれはそうつぶやいていた。

存在とはなにか。非在とはなにか。存在は非在にまさるか。非在は存在に
劣るか。その方はまいにちわたしに問うた。シャラーモフは最後には
憎しみがのこると書いたし、それはそれでわたしを魅入らせもしたのだが、
その方にはいつも律儀な愛がただよっていたようにおもう。かれはけふ
午後1時40分に発った。わたしは犬にそのことをつたえた。犬はおすわり
をし、神妙な目で聴いていた。悲しい目になった。

その方の「位置」はわたしをひきつけてやまなかった。その位置には、わた
しの問いへの切実な答えがあったからだ。まちがいなかろう。かれは『月』
の完了をまっていたのだ。かれの写真をみつめ、『月』を書きつつ、おもっ
たものだ。「無」にとっては、夢さえわずらわしいことだろう。『月』最終
回は今夕、校了した。奇しくも、というべきではない。ひとのなすことのす
べてが奇しきうんめいのなかにあるのだから。

宙づりの影のように、あれほど存在のかなしみをたたえたひとだったのに、
わたしはけふの不在にまったく慣れてはいなかった。備えがなかったのだ。
いまさら、うろたえている。

















posted by Yo Hemmi at 15:56| お知らせ | 更新情報をチェックする