
で、須藤さんと話していた際、高橋和巳は何が好きかと
訊かれた。埴谷雄高をして「苦悩教」と言わしめた高橋
和巳についてはほとんどが好きな(好きだった)のだが、
電話のことゆえ詳しくは話さなかった。例えばロープシン
の『漆黒の馬』。翻訳は工藤正廣さん、〈『漆黒の馬』の意
味〉と題する解説が高橋和巳で、これは小粒だけれどけだし
名品である。須藤さんにはそのことは言わなかった。
若いころわたしは『漆黒の馬』をいつも匕首のように持って
歩いた。「歴史的必然を、徹底した自己犠牲による確信的
殺人によって自由へと転化しようとするテロリストの苦悩
と、そしていかなる意図があるにせよ一たび手を血に染めて
よりのちははてしなくくずれてゆくテロリストの内面・・・」
といった和巳の語調には大方の作家が持つ悪擦れした得意も
衒いもなかった。
「やむをえない苦しみ」からはじまりながらも、やがて
「全き無駄」へと墜落してゆくテロリストの宿命。そして
「絶望的な懐疑」へ。和巳がふとため息をつくように漏ら
した「精神はほんらい空虚をいとうものなのだ」という
文言。これらすべては赤く発光するイトミミズのように
いまもわたしの躰の闇を這っている。
ここまで書いたら、野田さんからメール。月の子は引っ越し
たらしい。猫のエイリアンとともに。
そうだ、高橋和巳の書斎を、和巳の死後訪う機会を得た。
重い香と湿気った褞袍のような匂いをまだ憶えている。