
とてもとても貧しかったころのベトナムはハノイにいた。
何もろくに学びはしなかった。ただ闇の底知れぬ深みと、
幾重にも織りなされた繻子のような宵の肌触りにはしばし
ば恍惚とさせられた。肌理の細かな、純正とでもいうべき
闇であった。
停電また停電。痩せたネズミの襲来。朝、殺される豚の甲
高い悲鳴。10日遅れの新聞。水中花。嘘のように美しく闇
に滲む水中花。石油ランプの灯心の音・・・。
人新世≠ネどあったものではない。本をあまり読まなかっ
た。通用しないから。ハト、蛇、パパイヤ、バナナ、フォー、
カメ、犬・・・何でも食った。結核なのか高熱の女がいるカフェ
に自転車で行き、店内から自転車が盗まれないか眼を光らせて
いるうち、「・・・のため」という概念のようなことが煮溶けて
いくのを感じた。
何もよくはなかった。いつもじっとりと汗をかいていた。薄茶
色の風呂に入った。あのころのハノイのネズミときたら、石鹸
まで囓るのだった。ろくなもんじゃなかった。
でも、しかしながら、今よりはよほどましだった。トランプ時
代≠フ今よりはよほどよかった。ホタルブクロに蛍を入れて、
ぼうっと眺める夜の無為は、今よりまちがいなく上等だった。
【関連する記事】