2018年07月20日

鉄西区


◎王兵という文学

ワンビンの作品をみるのは、すぐれた長篇を読むのに似ている。
みているうちに、これが現代文学なのか古典なのかわすれてしま
う。巨大怪獣の死体のような工場=廃墟。のなかを、臓腑にもぐ
りこむようにしてめぐりめぐる。映画的経験か文学的経験か、あ
るいは絵画的経験か・・・どちらでもよい。

posted by Yo Hemmi at 18:04| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年07月18日

処刑日の夕刊


◎マルクス・ガブリエルの記事(毎日)

7月6日といえば、7人一挙処刑という忘れがたい日だったが、
その日の毎日新聞夕刊特集面「政治に倫理は大事なもので
なくなった」は一読に値する。マルクス・ガブリエルへの
藤原章生さんのインタビュー記事。

「21世紀型ファシズム」について縷々述べており、わたしの
以前の発言も引用している。7人一挙処刑へのガブリエルの
感想も知りたかったが、記事は7・6前のものだったろうから
しかたがない。

7人一挙絞首刑も豪雨災害報道も「21世紀型日本ファシズム」
のあらわれにみえてしょうがないのだが・・・。
posted by Yo Hemmi at 17:43| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

逝く


◎昼下がり、逝く

その方が13時40分に旅立たれた。というより、これでやっと
永遠に休めることになった。長いこと遷延性の昏睡におちいり、
わたしはずっと写真の寝顔≠みつづけた。『月』を書かせ
てくれたのは、あの方の不在のような実在だった。『月』の
脱稿をまっていたかのように、かれはひっそりと逝った。

意識がないとみなされるものの内面について、かれはわたしに
もっとかんがえるよう迫った。かれはなにひとつその身ではでき
ないのだった。発声も歩行もまばたきも。抱擁も殴打も排泄も。
指一本うごかなかった。痙攣のようなかすかな震え以外はなにも
うごきはしなかった。

夢をみているのかどうかも、しかとはわからない。家族は、みてい
ると主張したが、医師はまったく無関心だった。わたしはみている
と確信していた。それが「夢」というにふさわしいかどうかべつにし
ても。けっきょく、その方はさいごまで自己存在を主張しようとは
しなかったのだ。抗弁も自己弁護も、ついにしなかった。証そうと
すら。

かれは長く生と死のあわいにあった。もしくはそのようにみなされ
た。そうした位置づけを、わたしは大ざっぱすぎるとかんじていた。
生と遷延性の無意識と死。区切り方がこれでは乱暴である。とじた
瞼の下で、その方の眼球はぐりぐりとうごき、のどはなにごとか語ろ
うとして、のどぼとけをさかんに上下させた。

生と死とそのあわいのほかに、さまざまの存在的な領域があることを
おしえられた。透明度の高い、あるいは混濁した領域である。

その方はまた、わたしにこういうことをおしえた。うすれゆく意識の
がわからは、いったいなにがみえているのかーー視点の入れ替えがだ
いじなのだよ、と。つまり、なにも語らぬものに、わたしはどうみら
れているのか。寝姿はさらに、存在に意味と価値はつきものではない
・・・と、つよく示唆していた。わたしは『月』を書いて応答するしかな
かったのだ。

かれはもはや無用の生ゴミであった。尊厳もヘチマもありはしない。
無用の生ゴミには、屈辱をかんじるけんりもない。無用の生ゴミは
すでに弱者ですらない。無用の生ゴミは、おどろくべきことには、まっ
たく共感も同情ももとめないのであった。写真を、わたしはまいにちま
いにちみつづけた。意訳にすぎるかもしれない。〈ほっといてくれ!〉
ーーかれはそうつぶやいていた。

存在とはなにか。非在とはなにか。存在は非在にまさるか。非在は存在に
劣るか。その方はまいにちわたしに問うた。シャラーモフは最後には
憎しみがのこると書いたし、それはそれでわたしを魅入らせもしたのだが、
その方にはいつも律儀な愛がただよっていたようにおもう。かれはけふ
午後1時40分に発った。わたしは犬にそのことをつたえた。犬はおすわり
をし、神妙な目で聴いていた。悲しい目になった。

その方の「位置」はわたしをひきつけてやまなかった。その位置には、わた
しの問いへの切実な答えがあったからだ。まちがいなかろう。かれは『月』
の完了をまっていたのだ。かれの写真をみつめ、『月』を書きつつ、おもっ
たものだ。「無」にとっては、夢さえわずらわしいことだろう。『月』最終
回は今夕、校了した。奇しくも、というべきではない。ひとのなすことのす
べてが奇しきうんめいのなかにあるのだから。

宙づりの影のように、あれほど存在のかなしみをたたえたひとだったのに、
わたしはけふの不在にまったく慣れてはいなかった。備えがなかったのだ。
いまさら、うろたえている。
















続きを読む
posted by Yo Hemmi at 15:56| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

むごい夏


◎処刑とクチナシの花

すでに配信されているとおもう。昨日、共同通信に「むごい夏
ーー処刑とクチナシの花」を寄稿した。約7枚。加盟各紙に掲載
されたらご一読いただければさいわいです。にしても、ひどい
夏だ。大量処刑の前夜、サイコパス政権幹部は飲めや歌えの大宴会
をやっていた。

どうすればよいのか。どうすれば? それぞれがそれぞれに身の振り
方をきめるしかない。友人がさいきん精神科病棟に収容されたらしい。
べつの友人は『八月の光』を精読しおえた。わたしは『月』最終回の
再校ゲラをけふ、もどした。

みなが狂いはじめた。当然の生体反応である。わたしたちはもっと狂う
べきだ。そして、もっと狂うはずである。さらに狂わなければならない。
もう気のきいたことなど、いおうとしないことだ。わたしは気のきいた
ことをいわない。和辻はいった。

しめやかな激情、戦闘的な恬淡。ヌッポンズンはもともとキの字
なのである。

続きを読む
posted by Yo Hemmi at 18:03| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年07月08日

暴力の母型


◎いま、なにが到来しているのか?

ニッポン型の大量処刑は、不可視であるがゆえに、幻想のなかに
あるしゅ爆発的なスペクタクルを展示してみせた。民主主義は、
そのなまえを僭称したまま、未聞かつ最悪の暴力的専制と化して
いることを、おそらくは故意にさらけだし、そうすることにより、
まつろわぬものたちをはげしく恫喝したのだった。

人民の多くは、国家による殺りくに酔いしれた。政治から排除さ
れているルンプロ的人民たちも、政権の英断≠ノ拍手をおくった。
いかなる抵抗も対抗も困難である。なぜなら、最悪の暴力的専制
は、あらゆるしゅるいの社会的同一性の解体後の砂漠にたちあらわ
れ、もっとも脆弱で貧しい人民をもみかたにつけているからだ。

死刑こそが国家暴力の母型である。それは戦争というスペクタクル
の、最小単位の顕示である。気づくものは、つとに気づいている。
戦後政治に比類ない、犯罪者集団でもあるこの政権は、なんでもでき
るようになった。そして、じじつ、やりたい放題である。9条覆滅
から軍事・警察国家の樹立まで。人民と民主主義の名において。











posted by Yo Hemmi at 17:15| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年07月07日

国家の殺人


A Hanging(1931)

もしも、若いひとびとが本ブログをみかけたら、先日の7人絞首刑
について、すこしでもいい、おもいをはせてほしい。あれは、世
界史的事件である。そして、その世界性において、その知の崩壊
ぶりにおいて、7人絞首刑は、相模原事件の「さとくん」の所業
にも相似することに注目してほしい。

政権はついに一線をこえた。そのことは措くとして、基本的参考
文献として、ジョージ・オーウェルのエッセイ「絞首刑」
(『オーウェル評論集』小野寺健=編訳 岩波文庫)に目をとおし
てもらえるだろうか。とくにつぎのパラグラフ。

「妙なことだが、その瞬間まで、わたしには意識のある一人の
健康な人間を殺すというのがどういうことなのか、わかっていな
かったのだ。だが、その囚人が水たまりを脇へよけたとき、わたし
はまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言葉では言い
つくせない誤りに気がついたのだった」

「これは死にかけている男ではない。われわれとまったく同じよう
に生きているのだ。彼の体の器官はみんな動いているーーーー腸は
食物を消化し、皮膚は再生をつづけ、爪は伸び、組織も形成を
つづけているーーーーそれがすべて完全に無駄になるのだ」

「爪は彼が絞首台の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、
いや宙を落ちて行くさいごの十分の一秒のあいだも、かれの目は
黄色い小石と灰色の塀を見、彼の脳はまだ記憶し、予知し、判断を
つづけていたーーーー水たまりさえ判断したのだった」

「彼とわれわれはいっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、
感じ、理解している。それがあと二分で、とつぜんフッと、
一人が消えてしまうのだーーーー一つの精神が、一つの世界が」

これが原点である。そこからしずかにかんがえるしかない。




posted by Yo Hemmi at 18:19| お知らせ | 更新情報をチェックする

執行シール


◎サイコパス政権

あるテレビ局は、絞首刑執行の情報がはいるたびに、
確定死刑囚の顔写真に順次「執行シール」をはっていった
そうだ。戦慄する。現政権は7人一挙処刑をやっても支持率は
さがらないどころか、あがるとふんだのだろう。

ニッポンは最悪の「感情共同体」である。法も文化もありはしない。
天皇制のもとに国家権力と社会が感情的に睦みあい、睦みあわぬ
ものを感情的にはいじょする。「ニッポンの感情」を、質のわるい
メディア(しかないのだが)が日々注入する。

感情共同体を操作する現政権はすでにしてサイコパス・グループ
となっている。かれらはいわゆる「聖なる陰謀」をくわだてている。
すなわち「にんげんの、頭からの逃亡」だ。かんがえないこと。かん
がえさせないこと。ただ、たんじゅんに、かんじさせること。

暴力がむきだしてきた。たおすか、たおされるか、逃げるか。それ
とも、いっしょに「無頭人」になるか・・・。






posted by Yo Hemmi at 00:11| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年07月06日

ポアの日


◎1995/03/20ー2018/07/06

95年、まだ現職の記者だったころ。神谷町のワンルームマンシ
ョンにいた。よく酒をのんでいた。あの朝、日比谷線の神谷町駅で
たおれているひとびとをみて、ひとりを地上にはこびあげた。
パトカーも救急車もまだきていなかった。へんなかんじだった。

なにが起きているのかーーーと、切実にかんがえはしなかった。あまり
おどろかなかった。いつかこういうことはある。われわれはいつか
やられる。権力か擬似権力か社会の暗部によって、ある日とつぜん
に、斃され屠られる予感があった。いまもある。

オームは人気があった。吉本隆明さんも、かなりイカれていた。記者
のなかにもオーム・シンパがいて、なんにんかは上九一色がよ
いをしていた。麻原の人間的魅力を熱っぽくかたる社会部女性記者も
いた。

麻原の初公判を最前列で取材した。なにもすごみはなかったと記憶
する。ひとごとのように検察と弁護団のやりとりを聞きながして
いた。まったく関心がなさそうだった。肌つやがよくて、爪がきれいに
ととのえられていた。

麻原が、腿においた指を、モールス信号みたいにたたきはじめた。トン
ツー・トントンツー・ツー・・・。じっとみつめつづけた。信号ではなく
歌のようであった。トンツー・トンツー・・・。「また逢う日まで、逢える
ときまでー」

そして、けふ、2018年7月6日朝。えらばれた朝。麻原ら7人を絞首刑により
いっせい殺りく。皇室の慶事とバッティングしないように、選びぬかれた
日。婚約、退位、新元号、五輪前祝いムードに水をささないように。
死刑反対派はへりつづけているのだから、ぜんぜんかまいやしないと。

メディアの視線は95年当時よりも、さらにさらに浅くなっている。死刑制度
の是非を問う声はこの朝、皆無にひとしかった。なんということだろう。

ポピュリスト独裁政権はみずからの敵≠権力増強の肥やしにする。
つねに「例外状態」をたもとうとする。このニッポンではまた、死刑執行
によりアホメディアとドジン的民衆がわきかえり、死刑がいまやいっしゅ
の祝祭≠ニなっていることもわすれてはならない。

悪名たかいハンガリーのオルバーン・ポピュリスト政権はみずからの
体制をイリベラル・デモクラシー≠ニいってはばからない。語義矛盾
だが、実質的にはニッポンとおなじ「専制民主主義」だ。民衆は独裁者
オルバーンに自由をうりわたし、歓呼の声をおくる。そのハンガリーで
さえ死刑廃止国なのだ。

ニッポンは、こころあたたかく、人情に厚い、サッカーの試合後みんなで
ゴミ拾いをするほど公徳心がたかく、なによりも死刑のだいすきな、言論
表現の不自由を愛好する、異常国家なのである。明るくて、ひどく暗いクニ
だ、ニッポンは。

絞首刑執行をけさ担当させられた刑務官たちは、わずかばかりの特別手当
をもらい、これから酒をのみにいく。それぞれの光景と音とをわすれるた
めに・・・。











posted by Yo Hemmi at 16:49| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

feng ai!


◎『疯爱』(フォン・アイ)

けふ、歯医者の診察台のうえでもおもいだしていた。『疯爱』。
春節の花火。斜め下の病棟廊下からみあげる、ショボい花火。
しめった音。うつろな目、目。「にんげん以下、動物未満」。
中国式パノプティコン。うす汚い回廊。影絵・・・。

なにも弁明しないものたち。

『疯爱』は、映画であり文学であり絵画であり、暗がりから
存在論を開示する最良の哲学書だ。「にんげん以下、動物未満」
ないし「にんげん以下、バケモノ未満」。にんげんとはけだし
、「にんげん以下」なのだ。

であえてよかった!感謝と敬意。

手術はようすみ。『月』最終回。まいどのことながら、現実を
うたがわざる鉄壁の常識人(アホ、反動、幸せもの)に意気阻喪し、
『疯爱』に勇気づけられる。そんなもんだぜ。クソでも舐めろ!

犬とマック。





 











続きを読む
posted by Yo Hemmi at 13:34| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

よい!


◎厄介者たちへのまなざし

『瘋愛』はいい!とてもよい。邦題はよくない。思慮が足
りない。『瘋愛』には普遍性がある。『瘋愛』と『精神』を
同列でかたるのはバカげている。レベルがまったくちがう。

狂者と厄介者こそ、にんげんという現象の基本中の基本である。
盤石の常識人こそが、真性の異常者である。『瘋愛』にもしも
甘さがあるとすれば、後編の救い≠セ。なくもがなの救い
――そんなもの、もともとないのだから。

お幸せな常識人は、狂者のクソを舐めろ!『月』最終回。
posted by Yo Hemmi at 14:05| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年06月19日

Wang Bing


◎‘Til Madness Do Us Part

きいたふうな評言はいらない。これが他にまさるとか劣るとか
、言うもおろか。みいり、ただうちぬかれればいい。うちぬかれ
ないものは、うちぬかれなければよい。すぐにたちさればいい。
あるしゅの「未詳映像」である、これは。きいたふうな評言はい
らない。

コノテーションの無効。常套句はやめることだ。たちかえるべき
「場」を。『月』最終回。石井さんからメール。
posted by Yo Hemmi at 15:05| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年06月16日

ワンビン


◎注文した

おくればせながら。王兵『収容病棟』DVDを注文。
肩痛。 



続きを読む
posted by Yo Hemmi at 22:24| お知らせ | 更新情報をチェックする

2018年05月21日

訃報



◎消えるというのは


今朝、訃報に接した。逝くというのはどういうこと

なのか。よくわからない。どこも悲惨。ポラノンが

いる。




続きを読む
posted by Yo Hemmi at 14:15| お知らせ | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

再放送


◎Eテレ「こころの時代」再放送へ

ことし3月でしたか放送されたNHk・Eテレ「こころの時代」
が、来月10日に再放送されるようです。たしか朝5時(!)
からだとおもいます。あれからもう何年かすぎた気がします。
詳細はまたお知らせします。
posted by Yo Hemmi at 14:29| お知らせ | 更新情報をチェックする

2017年11月07日

原稿


◎『月』第2回を送稿

月刊「本の旅人」(角川書店)で連載をはじめた
小説『月』の第2回原稿(約45枚)を昨日送稿。
11月下旬発売の「本の旅人」12月号に掲載されます。
最終的に4〜500枚になるか。

これだけは言えるのではないか。米国の売春宿のオーナー
(金髪)が来日して、ニッポンのパシリとゴルフをする。
メディアがよろこぶ。この光景につき、「まったく好み
でないもの」を忌避する方法とかんれんづけてかんが
えるのは無意味か、どうか。

また、このばあいの「絶対的な拒否」の今日的不可能性に
かんし、いつもより多く時間をかけて、おもいをめぐらすの
は徒労かどうか。
posted by Yo Hemmi at 16:58| お知らせ | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

やまゆり


◎京都新聞の紙面

2017年8月5日付の京都新聞掲載エッセイです。友人に送ってもらいましたが、
横長の記事を縦になおせず、そのままはりつけます。すみません!
やまゆり・京都新聞.pdf
posted by Yo Hemmi at 13:59| お知らせ | 更新情報をチェックする